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フォーリン・アフェアーズ・リポートについて
米外交問題評議会を支えた精神
Inquiring Minds
:The Story of the Council on Foreign Relations
David C. Hendrickson
:The Story of the Council on Foreign Relations
David C. Hendrickson
外交問題評議会は、「フォーリン・アフェアーズ」誌やその研究プログラムをつうじて、「学者たちを自らの狭い専門領域から解き放ち、ビジネスマン、弁護士、 金融家により大きな眺望を与えることで(異業種、専門の異なる人々)のパートナーシップを形成し、……相互の洞察をたかめ、世論を啓蒙し、そして政府に警告を発し、啓発してきた」。いわゆる公益というものは「周到な分析と開放的な議論によって最大限に実現されることを謙虚に心しながら、多種多様な知性を動員して、急を要する国際問題に取り組むという点で外交問題評議会は最善の存在」だったし、これこそ評議会を傑出した存在としたクォリティなのである。
ベルサイユ会議と外交問題評議会
この刺激的な著作は、第一次世界大戦後の余波のなかで設立され、今年で七五周年を迎える外交問題評議会(Council on Foreign Relations)をテーマに取り上げている。一九八四年から一九九三年まで「フォーリン・アフェアーズ」誌の副編集長を務めたピーター・グローズは、外交問題評議会の起源を、ウッドロー・ウイルソンの側近であるハウス大佐が、ジャーナリストのウオルター・リップマンの協力を得て、ベルサイユ会議に望む米国の和平交渉団のためにまとめたインクワイアリー(大調査)に見いだしている。
そもそもこのインクワイアリーの必要性を促したのは、ときの国務省が、可能な限り 公正に世界地図を再編するのに必要なヨーロッパの状況を的確に把握していなかったためだが、これがきっかけとなって、(米国側の)大調査チームの一部メンバーは、英国の指導者の一部とともに、戦後においても「この大調査を続ける」("continue The Inquiry")ための組織が必要であるという点で合意した。だがこの英米の共同構想は、双方が心変わりしたために結局は実現しなかった。とくに米国側には体力を使いきったという疲弊感と精神的消耗感を感じていたため、計画のすべてが気力を萎えさせるほどに問題含みとなった時期があった。しかし、その後計画は復活し、―つねに収入面では恵まれぬ―学者たちもまた、それまで金融家や国際的弁護士が中心になって活動していたこのプロジェクトに参加した。
一九二一年七月二九日、これらの活動を取りまとめる形で外交問題評議会が設立され 、一九二二年の九月にはそのフラッグシップ・ジャーナルである「フォーリン・アフェアーズ」誌の第一号が印刷された。その発行人欄には、「フォーリン・アフェアーズ」誌の任務は、たんに(国際情勢や国際問題の実情)を「知らせる」(inform)だけでなく、米国世論を「リード」(guide)するとされていた(訳注:カウンシル・オン・フォーリン・レリーションズの日本語表記としては、文中で用いている「外交問題評議会」のほかにも、外交評議会という表記が一部で使われているが、戦前来の表記である外交問題評議会のほうがより一般的で定着していると思われる)。
厳粛さと革新性
世論をリードすることもさることながら、(世論に)情報を与える必要性は急務だった。米国の国内世論はそれまで長期にわたって米国の特質とされてきた孤立主義ムード(insular habit)へとまさしく回帰しつつあった。評議会が標榜する概念はこの世でもっともコスモポリタン的であると(内部では)捉えられていたが、この新組織はこれとは全く異なる環境での活動を当初余儀なくされた。例えば、一九二八年に「フィラデルフィア・レコード」紙は、「米国人は中国北部を開発しているものがそこで何をしようと一向に構わない」と書いたが、これはまさしく米国の孤立主義感情の反映だった。 外部世界に対する(米国内の)独善的な無関心を向こうに回して、評議会はつねに立ち上がった。しかし、その国際主義は同時に、問題にどのようなコースと取るべきかについて、どこかしら控えめではっきりとせず、定まったものでもなかったが、それでも問題を提示し続ける必要があると確信していた。外交問題評議会の初代会長を務めたエリフー・ルートは、米国の国際連盟加盟についての共和党側の諸条件を形成する主要な役割を果たし、結局ウイルソン大統領がこの条件の受け入れを頑なに拒否したため、米国の連盟不参加が運命づけられた。本来なら頑ななウイルソンの立場と、闇雲な孤立主義の間に、ある種の新たな道をが見いだせていたはずだったのだが・・・。
第二次世界大戦とともに米国が世界的リーダーシップと責任を引き受けるようになると、評議会の影響力もピークに達した。外交問題評議会は、代弁すべきエスタブリシュメントが存在した時期のそのエスタブリシュメンをまさに代弁する存在だった。 評議会は、コンセンサスが堅固で不動のように思われた時期のコンセンサスを具現していたのだ。評議会はつねに政府に近い半ば公的な地位を保持しながらも、政府とは距離を置いていた。さらに、評議会のメンバーたちは、少しでも少数過激派に近い立場をとる人物たちにその権威のお墨付きを与えることをつねに警戒してた。
しかし、 その最盛期はもとより、初期における活動でも、研究グループ、「フォーリン・アフェアーズ」、その他の出版物の内容、夕食後に、片手にブランディーをもち葉巻をふかしながら行われる有力者たちの内輪の議論は、あらゆる見解がもつ魅力を心から受容する包容力に富んでいた。控えめな性格だったとはいえ「フォーリン・ アフェアーズ」の初代編集長、アーチボールド・カリー・クーリッジは、一九二五年に左派の学者W・E・B・デュボイスの手になる「人種別の世界」を誌上に掲載し、後任の何事にも積極的な性格の闊達編集長でならしたハミルトン・フィッシュ・アームストロングも、デュボイスによる論文をさらに四回も掲載した。節度、厳粛さ、そして最重要課題の模索という枠組みを特徴としながらも、すでに広く受け入れられている概念に挑戦することが奨励され、むしろ持ち味となっていたのだ。
ベトナムと外交コンセンサスの破綻
ベトナムは外交政策面でのコンセンサスを破壊し、エスタブリシュメント層にも亀裂が生じた。ベトナムが作り出したこの分断線は、社会全般同様に、評議会内部でも深く、刺のあるものだった。この極度の混迷から立ち直る過程で、評議会はそれまでとは大きく異なる国内情勢を目の当たりにした。評議会の社会的立場も唐突かつ根本的に変化した。もはや評議会は、ものごとの中枢ではなくなっていた。ワシントンとの関係もしばしば距離をおいたものとなっていたし、歴代大統領たちが、評議会の立場に反発することもあれば、(さらに悪いことに)無関心なこともあった。ほぼ遜色のない競合雑誌が複数出版されるようになり、内容の高さとはいう点では「フォーリン・アフェアーズ」がかろうじて優越を保っていたものの、時の最高の論文が「フォーリン・アフェアーズ」に間違いなく掲載されるという状況ではなくなった。
「フォーリン・アフェアーズ」はそれでもこの分野における他の追随を許さぬ発行部数を維持し、拡大していったが、それは数多くの見解のうちの一つにすぎなくなった 。実際、「フォーリン・アフェアーズ」自体多様な見解を内包している。事実、「フォーリン・アフェアーズ」は、他の外交雑誌に劣らず多種多様な見解を受け入れるようになった。というのも、もはや代弁するコンセンサスがなくなり、そこにあるのは検証を要する一連の重要課題だからである。評議会が性別(女性)、民族、地域をめぐる多様性を新たに認識し、受け入れるようになるにつれて、評議会のメンバーも(多様化し)拡大していった。評議会の職員、研究員、そしてメンバーたちの多くが、政府要職に抜てきされるのをこれまでどおり期待し、実際にそのうちの一部は政府の要職へと転じることが多いが、外交問題評議会のかつて手にしていた地位はもはや過去のもので、今後それを取り戻すことはあり得ないだろう。
リフレクション
アニバーサリー(記念日)とは、祝いの機会であると同時に、過去をふりかえる時でもある。グローズはこの著作で、過去の成果を楽天的に詳述し、長い間忘れられてきた論争をふりかえり、外交問題評議会の歴史をうまくまとめている。彼の簡潔な説明が、歴史家の好奇心を満足させるのではなく、むしろ刺激しているとしても、この著作が冗長な大著であれば、その歴史をふりかえる節目であるアニバーサリーにはふさわしくないものになっていたはずだ。この本をつうじてグローズが明らかにしたのは、外交問題評議会の試みを支えた精神、つまり、米国がつねに内向きの感情を克服し続ける必要があるという、評議会の刷新を手がけた人々、そして創設者たちの精神なのである。問題なのは大衆レベルでの内向きの姿勢だけではない。別の意味での内向き的姿勢が学界をむしばんでいることも同様に火急の対応を要する問題だった。学者たちを自らの狭い専門領域から解き放ち、一方ではビジネスマン、弁護士、金融家により大きな眺望を与えることで、これまで外交問題評議会は死活的に重要な社会的役割を果たしてきた。評議会は、(異業種、専門の異なる人々)のパートナーシップによって相互の洞察をたかめ、世論を啓蒙し、そして政府に警告を発し、啓発してきたのだ。
グローズは今後の評議会の役割については触れていないが、彼が本のなかで示した これまでの評議会の特質だけでも、この組織の今後の可能性と落とし穴の双方に思いをめぐらすには十分だろう。今年で七五周年を迎える外交問題評議会は、人間で言えばそろそろ寿命を迎える歳にはいる。勿論、評議会といえども、自然界のすべての生命体が年を重ねるにつれてバイタリティの低下と劣化を指令する法則から逃れ得るわけではない。その影響力にかげりが見えてきているこの時期、評議会は、安易な見解や人々を驚かすようなイメージをありがたがる世の中にあって、人々の正当な関心を喚起すべく努力しなければならない。そして、市民と政府の間に位置するその他のほぼすべての非営利団体や組織同様に、評議会の指導者たちもまた、しばしば本来の目的から幾ばくか逸脱せざるを得ないといとしても、ファンド・レイジング(基金調達)にも大いに努力しなければならない。変化し、ますます多様化しつつある社会に対応できるように、評議会も殻をやぶってさらに成長しなければならないが、それが、これまで評議会を傑出した存在としてきたクォリティ(質)を失うリスクを一方で伴うことも忘れてはならない。
いわゆる公益というものは周到な分析と開放的な議論によって最大限に実現されることを謙虚に心しながら、多種多様な知性を動員して、急を要する国際問題に取り組むという点で評議会はこれまで最善の存在だった。もしこうしたクォリティが失われれば、すべては無に帰することになる。だが、このクォリティが失われなければ、それだけで一〇〇歳を迎える二〇二一年は一〇〇周年を祝う立派な理由となるし、また、ブランディ片手に葉巻をふかしながら諸問題を語る格好の言い訳にもなるかもしれない 。
デビッド・ヘンドリックソンは、コロラド・カレッジの政治学教授。主要な著作には、The Imperial Temptation (ロバート・タッカーとの共著)がある 。