- トップページ
- フォーリン・アフェアーズ・リポートについて
- もう一つの20世紀史――米外交問題評議会とフォーリン・アフェアーズ
フォーリン・アフェアーズ・リポートについて
もう一つの20世紀史――米外交問題評議会とフォーリン・アフェアーズ
The Council on Foreign Relations and Foreign Affairs
Notes for a History
William P. Bundy
Notes for a History
William P. Bundy
パリ講和会議と外交問題評議会
ここでは、かつてプリンストン大学の学長を務めていたウッドロー・ウイルソンの話から始めるのが妥当だろう。ウイルソン大統領のリーダーシップ、理念、そして弁舌は、当時の米国人に大きな感銘を与えていた。そして、一九一九年一月、ウイルソンは、そこに適切な国際機関があれば、国際平和を実現する際の大きな助けになるという信念を胸に、米国人だけでなく、世界の多くの人々の希望でもあった公正かつ永続的な平和を実現すべく、パリ講和会議へと向かったのである。
しかし、最近出版されたオーガスト・ヘクシャーによるウイルソンの伝記からも明らかなように、一九一九年春までには、そうした希望が実現される可能性はほとんどなくなっていた。(訳注:民族自決、秘密外交の廃止などを盛り込んだ「一四箇条」 に代表されるウイルソンの理想主義的外交は、結局、ヨーロッパの現実主義的政治家たちによって、ほぼ押さえ込まれてしまっていた)。こうした現実を前に、英国と米国の代表団の有志は、ベルサイユ会議がいかなる結末を迎えるにしても、外交問題の理解促進を目的とする民間の研究機関を設立する必要があるという点での合意を固めつつあった。当初、彼らは、米英が共同して一つの研究所を設立することを考えていた。しかし、この構想は、程なく(米国における孤立主義の蔓延という)現実的な問題に直面し、挫折する。(結局、二つの組織が米英の双方において別個に創設されることになった)。こうして、(米国には)外交問題評議会(Council on Foreign Relations)、英国には王立国際問題研究所(Royal Institute of International Affairs)がそれぞれ設立され、この二つの組織は現在にいたるまで友好的な関係を維持している。
英国側は、ロンドンにあるウイリアム・ピット一族所有のすばらしい建物を研究所とし、(この由来にちなんでこの研究所は別名チャタム・ハウスとも呼ばれている )。一方、米国側は、一九二〇年から一九二一年にかけて、その後、外交問題評議会として知られることになる研究機関の組織作りを行った。評議会の最初のメンバーは七五人で、彼らはおもに二つのグループに分類できた。第一のグループは、パリ講和会議に参加し、事実関係をまとめ、ウイルソン大統領に適切なアドバイスを試みた大学教授を中心とする国際問題の専門家や研究者たち。そして、第二のグループは、公共利益に関心をもつ国際的なビジネスマンや銀行家たちだった。彼らのほぼ全ては、ニューヨーカーだった。その後、この二つのグループは次第に小規模な組織としてまとまりを見せるようになる。メンバーたちは、「ミーティング・プログラム」と呼ばれる講演会に参加するとともに、メンバーの国際問題に対する理解を深めるための討論会を開催し、その後、その研究成果を出版物として広く世に送りだすることになる。
外交問題評議会はその後本格的な活動を行うようになり、ミーティング・プログラムも着実な成果をあげるようになった。この講演会への参加者たちが国際問題に大きな関心をもつ影響力のある人物たちばかりだったこともあり、ミーティング・プログラムのスピーカーは、各国の政府指導者をはじめとする国際問題に携わる第一線の人物たちばかりだった。例えば、一九二二年の秋に訪米したフランスのクレマンソー首相がニューヨークにおける主要な外交演説の場として外交問題評議会を選んだことは 、ミーティング・プログラムの質の高さを実証するものだったといえよう。その後の一〇年間においても、世界の指導者たちが、外交問題評議会で演説を行い、現在においても、このプログラムの輝かしい伝統は生き続けている。
フォーリン・アフェアーズの誕生
だが、外交問題評議会の設立者たちがこれで満足した訳ではなかった。彼らは、ミーティング・プログラムのメンバーだけでなく、より多くの人々に問題の所在を訴えかける必要があると考え、本格的な外交論文を掲載する季刊誌の発行を手がけることになる。程なく、この雑誌の発行は、外交問題評議会の重要なプロジェクトの一つになっていく。フォーリン・アフェアーズの初代編集長に選ばれたのは、ハーバードのアーチボールド・ゲイ・クーリッジ。彼は、パリ講和会議をめぐって、ウイリソン大統領の顧問として積極に活躍した人物である(一九八〇年代に、インディアナ大学 のロバート・バーンズ教授がクーリッジ教授に関するすぐれた伝記を出版している)。
幾分厳格すぎるところがあったとはいえ、クーリッジは、一九世紀末から二〇世紀初頭におけるロシア・東ヨーロッパ研究の米国における先駆者だっただけでなく、ひろく国際問題研究に関するパイオニアでもあった。ハーバードのウィデナー図書館の館長だったクーリッジは、その生涯をとおして、旅行を厭わずに資料を集めるリサーチャーであり、緻密な実証主義を旨とする学者でもあった。(厳格であるとともに、 彼は感謝を忘れぬ誠実な人間でもあった)。中国貿易で財をなした一族に生まれたクーリッジはドイツで博士号を取得しているが、一九一四年に彼は、ドイツ時代の恩師や友人たちへの感謝の印として、ベルリンにある有名なアドロン・ホテルで、一〇〇名を招いた晩餐会を主催したこともある。また、クーリッジは、少なくとも、フランス語、ドイツ語、ロシア語を話す人物でなければ、ハーバードのヨーロッパ史の教授としては適任ではないと主張した人物としても有名である。
外交問題評議会が、彼に編集長のポストを引き受けるようにと説得したのは、クーリッジが五七歳の時だった。評議会側は、ニューヨークにおいて、雑誌発行の実務を取り仕切り、編集も手がける若くて有能な人物を見いだし、彼を副編集長として補佐役につけることを条件として示し、クーリッジに編集長ポストを受諾させたのである。
ここで登場するのが、評議会にとって第二の鍵を握る重要な人物、エドウィン・ゲイである。(副編集長の)人選に迷っていた評議会のリーダーたちは、ニューヨーク・イブニング・ポストの編集局長で、当時は編集長も兼務していたゲイに人選を依頼した。ゲイは、当時、彼の下でヨーロッパ担当記者として働いていたハミルトン・フィッシュ・アームストロングを強く推薦する。クーリッジ自身、短時間のインタビューだったとはいえ、かつてアームストロングのインタビューに応じ、一般的な認識とは異なる彼の考えをこの若い記者に話して聞かせたことがあった。
一九一六年にプリンストンを卒業し、ジャーナリズムに身を投じたアームストロングは、当時まだ二〇代後半の若さだった。彼は、第一次世界大戦期には、従軍記者として、おもにバルカン半島の最前線に赴き、さらに、事実上の駐在武官として、ベオグラードのアメリカ大使館にも出入りしていた。その後も、イブニング・ポストの特派員として、ヨーロッパ全土をカバーし、積極的な取材活動を行っていた。また、アームストロングは、外交問題評議会の設立に参加した若いメンバーでもあった。
アームストロングは、外交問題評議会が申し出た副編集長のポストを即座に受け入れ、一九二二年に米国へと帰国するが、彼の荷物の中には、ヨーロッパを代表する政治家二人が執筆した重要な論文が入っていた。当初の約束通り、クーリッジはボストンに残り、ハーバードでの教職と学問的研究を続け、ニューヨークのアームストロングが出版の実務を取り仕切った。雑誌の装丁を決めたのもアームストロングである。表紙は、特有の淡いグレイカラー(灰色)とされた。馬にまたがった人物を模したロゴをデザインし、そのレタリングを手がけたのは、ハミルトン・アームストロングの兄弟であるマーガレットとヘレンだった。フォーリン・アフェアーズの表紙の装幀やレイアウトは、画家の息子だったアームストロングの趣味が強く反映されていたといえよう。
その創刊号からして、フォーリン・アフェアーズは手作りの独立した雑誌だった。 外部からの介入は一切無く、内容に関する全ての決定権は編集部の手にあった。(編集顧問委員会のメンバーが個々に意見を述べることはあったが、彼らが委員会全体の意見としての考えを編集者たちに伝えることは滅多になかった)。 二人の編集者がつくる雑誌というのは、米国の雑誌の歴史においてもきわめてユニークなものだった。クーリッジとアームストロングは、午後五時に手紙を投函し、翌日の午前中にそれを受け取るといった連日の書簡を積み重ねることで連絡を取り合った。
表面上、二人の性格は大きく異なっていた。社交的でエネルギッシュなアームストロングに対して、クーリッジは、厳格で慎み深かった。だが、この二人はともに、旅行を愛し、物事を直接に見て人々と直に話すことを好むという共通点を持っていた。 それだけでなはい。幅広い関心、正確さに対する心配り、開放的態度、名声に対する無頓着さ、作者の思いどおりに意見を表明させるスタイルなど、彼らは多くの共通項を有していた。端的にいえば、彼らはまさしく偉大な編集者だったわけである。
創刊号が発行されたのは一九二二年九月。巻頭を飾ったのは、米国政界の長老で国務長官を務めたエリー・ルートの論文だった。ルートは、米国が世界的国家となった 以上、米国の知識階級は、より幅広い国際問題に関心を持つ必要があるし、彼らは政府にはいって活動する必要があると主張した。この主張は、現在から考える以上に、当時としては、きわめて独創的かつ重要なメッセージだった。当時の外交は、ほぼ例外なく、世論など殆ど気にかけることもなく、大統領とホワイトハウスの主導によって行われ、議会と大衆に何かが伝えられるとすれば、それは、すでに外交交渉が終わった後においてだった。だが、国際連盟への批准を米国上院が拒否したことからも明らかなように、一九二二年までには、大統領主導型の密室的な外交スタイルが、時代遅れで、もはや機能しなくなっているのは誰の目にも明らかだった。
歴史的に見れば、現在までのところ、十一人の国務長官がフォーリン・アフェアーズに論文を寄稿しているが、ルートは、その最初の国務長官だった。驚くべきことに 、一九六三年の一月号では、(二人の国務長官経験者、その後、国務長官になる人物 )と、いうなれば、三人の国務長官が同時に論文を発表している。この三人とは、ディーン・アチソン、クリスチャン・ハーターというかつての国務長官たち、そして、その後、国務長官になるヘンリー・キッシンジャーである。
創刊号では、ルート論文の他にも、当時のヨーロッパの政治指導者たちの論文、さらに、第一次大戦後の賠償金をめぐる問題点を指摘したニューヨークの若手弁護士、ジョン・フォスター・ダレスの論文も掲載され、クーリッジ自らもソビエト問題に関する論文を発表している。
最初の一〇年間
創刊当初、二人は、可能な限り広範な地域へこの雑誌を浸透せようとした。もっとも、彼らが、現代流の広報活動の一環としてそれを試みたわけではない。彼らは、影響力のある人物が、この雑誌を手にすれば、自ら論文を寄稿したいと考えるかもしれないし、また他の有能な人物を執筆者として紹介するかもしれないと考えたのである。
クーリッジは、第一次世界大戦期のモスクワで「戦争救済プログラム」に関わった際に知り合った友人を介して、フォーリン・アフェアーズを、レーニンの顧問だったカール・ラデックに送った。その後、ラデックは、これをレーニンに一読するようにと手渡し、レーニンは論文に下線を施したそうである。このレーニンが手にした雑誌は、その後、外交問題評議会へと送り返され、現在は評議会ライブラリーの木枠の展示棚に収められている。この雑誌には、ラデックが書き込んだコメントとともに、おそらくはレーニンが引いたとされる下線が数多く施されている。興味深いことに、レーニン自身が引いたと思われる下線は、クーリッジのソビエト論文にではなく、ヨーロッパの経済問題を論じたダレス論文に施されていた。
一九八四年から一九九二年まで編集長を務めたウイリアム・ハイランドは、一九八九年にミハイル・ゴルバチョフが評議会を訪れた際に、このオリジナルの雑誌を見せ、そのいきさつをゴルバチョフに説明した。ゴルバチョフは、即座に「ラデックは裏切り者だ」と語ったそうである。スターリンの亡霊は今でも生き続けているのかもしれない。(訳注:ラデックは、一九二〇年代の共産党内の権力抗争でトロツキー派につき、二七年に共産党から除名された。三〇年に復党したものの、三七年に第二次モスクワ裁判の被告となり、死刑は逃れたものの、三九年に獄死したとされている)。 いずれにせよ、クーリッジによるロシア・ソビエト問題重視の姿勢は、その後も引き継がれ、アームストロングがその伝記「Peace and Counterpeace」において誇らしげに指摘しているように、その後の四五年間に、フォーリン・アフェアーズは、二四八ものロシア関係論文を掲載している。これは、ロシア・ソビエトの専門雑誌を別にすれば、画期的なことといえよう。
創刊号において、二人の編集者は、その後ずっと雑誌の最初の部分に印刷されることになる雑誌の信条を次のように記した。フォーリン・アフェアーズは、「いかなる見解上のコンセンサス」を代弁するものではない、と。寄稿者の論文の主張が対立することは当初から想定されていたわけで、回避されるべきは、度を超えた批判だけだと考えられていた。曰く、フォーリン・アフェアーズは、特定の考えに組みするのではなく、多様な見解を幅広く掲載することで、米国世論の(国際問題への)理解を促進できると(考える)、と。
この崇高な基準を、これまでの各号が全て満たしていたかどうかに関しては、勿論議論の余地がある。しかし、創刊当時の二人の編集者たちは、この基準を満たそうと常に心がけていた。彼らは、国際連盟条約の批准が否決されたことに失望を感じていたが、クーリッジとアームストロングは、国際連盟への強硬な反対論者で、根っからの孤立主義者であるヘンリー・キャボット・ロッジとウイリアム・ボラー議員に、それぞれ一九二四年と一九三四年に論文を書く機会を与えている。評議会の保守的なメンバーの一部が、もう一人の代表的孤立主義者であるアイオワのスミス・ブルックハート上院議員に意見表明の場を与えることに反対した時、アームストロングは強く反発し、相手の意見に耳を傾けずして、どうして彼らの立場と相対していくことができるだろうか、なぜわれわれと異なる意見に耳を傾けるのを恐れる必要があるのかと語ったという。また、クーリッジは個人的には、ソビエトという国家が現に存在するのは事実であり、そう簡単に瓦解していくとも考えられぬ以上、米国はソビエトを承認すべきだと考えていたが、それを直接的に表明することはなく、逆にソビエトの承認に反対する論文を掲載した。いずれにせよ、クーリッジは、ソビエト・システムをイデオロギーの観点から捉えるのではなく、ロシア史の一部として位置づけていた。
フォーリン・アフェアーズは、それまで必ずしもその領域の権威と見なされていないような人物たちにも機会を与えた。そうした中の一人が、アームストロングの個人的な友人で、すぐれた知識人でもあったアフリカ系米国人のW.E.B.デュボイスである。彼は合計で五本の論文をフォーリン・アフェアーズに寄稿しているが、最初に寄稿した一九二五年の論文で、二〇世紀の主要な問題が「肌の色」をめぐって引き起こされることになるとすでに指摘していた。
女性の著者は初期にはそう多く見られなかったが、一九三〇年代末には、(コラムニストの)ドロシー・トンプソンが登場し、第二次世界大戦後には、(歴史家の)バーバラ・タックマンが数多くの論文を発表している。政治・軍事・外交関連の論文が中心だったとはいえ、経済・貿易問題もかなり頻繁に掲載され、一九四四年以降は、社会問題をテーマとする論文も掲載されるようになり、例えば、プリンストンのノートシュタイン教授が人口問題に関する論文を発表している。
学者肌のクーリッジは、書評欄を最初から重視していた。当初、書評欄がなかなか充実したものとならなかったため、彼は、ハーバードの若い同僚、ウイリアム・ランガーを書評担当者に抜てきした。下士官として陸軍にいたランガーは、その後、クーリッジのお気に入りの優秀な研究者となり、すでにハーバードでのヨーロッパ史研究をめぐるクーリッジの実質的後継者と目されていた。ランガーは、書評欄を大きく変 え、その後七〇年にわたって、お手本とされるような見事な書評欄を作り上げた。当初は、英語に限らず、外国語で出版されたものも含む国際問題関係の重要な著作の全てがとりあげられ、簡潔かつ批判精神にみちた書評がなされていた。外国語の文献を重視するという点で、彼はクーリッジと同じ立場をとっていた。学生の一人からチェコ語による著作が取り上げられていないことを批判されたランガーが、図書館におもむきチェコ語の辞書と文法書を傍らにおいて、書評文を書きあげたという話はつとに有名である。
ランガーによる書評が優れていたのは、彼の驚異的なリサーチ・読書能力に負うところが大きい。書評文の入稿予定日の約一カ月前、フォーリン・アフェアーズのニューヨーク・オフィスは、書評に取り上げる候補作品約一〇〇冊程度を、ケンブリッジのランガーの下へと送ったが、彼は、わずか二週間のうちに、これらの本全てに目を通して、書評文を書き上げていたのである。一九二〇年代、フォーリン・アフェアーズはまだ産声をあげたばかりだった。この時期には、他にも数多くの雑誌がニューヨークで出版されたが、フォーリン・アフェアーズは、自らの地位を確立させ、着実な進歩を遂げた。創刊当時は、一五〇〇部に過ぎなかった発行部数も、一九二七年には、一万一千部へと拡大していた。そして、一九二八年、クーリッジは若すぎる死を迎え、その後は、アームストロングが編集長となる。だが、フォーリン・アフェアーズが勢いを失うことはなかった。例えば、一九二八年の秋、フォーリン・アフェアーズは、民主、共和両党の政治家による論争を掲載したが、そこにおける民主党側の論陣を張ったのは、当時のニューヨーク州知事で(後に大統領となる)フランクリン・ルーズベルトその人だった。
一九三〇年代
一九三二年には、それまでの書評ページをまとめたものが本として出版された。この書評欄をしかるべき後に書籍として出版するというスタイルはその後三〇年間にわたって継続され、一九七二年には、依然重要性を失っていない著作の書評を集めた膨大なフォーリン・アフェアーズ文献集が出版された。これは、アームストロングが特に熱心に取り組んだプロジェクトで、彼の大きな業績の一つでもある。
一九三三年までには、大恐慌、ヒトラーの台頭、ソビエトにおけるスターリン支配の確立という事態を受けて、世界状況は次第に波乱含みの様相を呈し始めていた。一九二〇年代、フォーリン・アフェアーズは、国際連盟に関する三〇を超える論文、さらに三二本の軍縮問題関連の論文を掲載した。つまり、二〇年代には理想主義的な論文が数多く掲載されたわけだが、三〇年代にはいるとナチス・ドイツへの懸念とそれが作り出す脅威への対応策を論じた論文が多くなってゆく。
アームストロング自身、こうした世界の変化を身を持って感じていた。つねにヨー ロッパ政治に強い関心を持っていたアームストロングは、一九三三年の春にドイツを訪れ、数多くの人々にインタビューを試み、その中には、アドルフ・ヒトラーその人も含まれていた。帰国後、アームストロングはヒトラーの印象についての短い本をまとめているが、当時の印象を彼は回顧録において、次のように要約している。
ヒトラーといえども、(ヨーロッパ諸国が課す)最終的なテストの前には結局は妥協するするのではないか、またそうでなくても、彼の政権は結局短命に終わるとみる人々がいるが、私には彼らの見解はあまりに楽観的過ぎるように思える。思慮ぶかく賢明だった人々はもはや存在しないようである。 その後、彼の懸念はさらに深まり 、ドイツが再軍備すれば、ヨーロッパの平和そして米国自身にとっても、大きな脅威となると確信するようになる。
この頃までに、アームストロングは、ニューヨークの弁護士でプリンストン時代の友人でもあるアレン・ダレスと再び親交をもつようになる。のちに彼は、CIA長官として、そしてウオーレン委員会のメンバーとして下した決断故に、広く批判されることになるが、一九三〇年代から五〇年代にかけて、ダレスとともに働いた経験がある私に言わせれば、彼は、アームストロング同様、広く尊敬されていた。ダレスは、 寛容で、懐が深く、新たな考えを受け入れる人物で、市民の声を尊重し、超党派の立場をとっていた。ダレスが生きたのは、ヒトラーのドイツ、スターリン主義のソビエトという脅威が存在した時代で、当然、諜報機関を駆使するのは必要不可欠だったのである。彼の人生と業績に対する評価がこの点だけで不当にゆがめられないことを私は切に望む。
アレン・ダレスは、一九二〇年代から三十年代にかけて、そして、戦後においても 、彼が朝鮮戦争の最中にCIA長官に任命されるまでは、評議会の活動に熱心に参加していた。一九二七年から一九四七年の間に、ダレスは十一の論文をフォーリン・ア フェアーズに寄稿している。
一九三〇年代末期、アームストロングとアレン・ダレスは、「米国は中立を維持できるか」というタイトルの本を二人で執筆している。これは中立問題をめぐる簡潔な議論だったが、本の題名からもわかるように、ヒトラーの政策の前に、もはや米国が中立を維持していくのは困難な状況になりつつあった。その後の米国の参戦にいたるまで、フォーリン・アフェアーズは、創刊以来はじめて、一つの考えを支持するよう な論調を取り始める。ここでいう一つの考えとは、一九三九年の九月に全面戦争となったヨーロッパ大戦への介入支持のことである。孤立主義を唱える論文も無くはなかったが、主流をなしていたのは、著名なコラムニスト、ドロシー・トンプソンを始めとする、ヒトラーの脅威を重視する介入論的立場にたつ力強い論文だった。
同時に、ドイツの学者マイケル・ワラの論文も掲載された。この時期には、「同盟国を支援し米国を防衛する委員会」(CDAAA)、また一九四一年初期には、「自由のための戦い委員会(FFFC)」など、ドイツに対抗して米国のヨーロッパ戦線への介入を求めるとともに、日本との戦闘に備えることを主張する組織が数多く設立されたが、評議会メンバーの多くもこれらの組織に参加していた。アームストロング 自身は、このような組織には全く関与しなかったが、友人のアレン・ダレスは自由のための戦いに積極的に関与した。アームストロングをよく知る人にとって、彼がどの国に好意を持っているかは歴然としていた。しかし、ひとたび一九三九年九月に戦争が始まると、彼の主な関心は他の方向へと向かっていった。
三〇年代の研究プロジェクト
一九三〇年代、評議会、フォーリン・アフェアーズの双方は、さらに影響力を拡大していった。二〇年代末から、三〇年代をとおして、評議会は、当時の議長であるウオルター・マロリーが中心になってまとめあげた世界政治ハンドブックを刊行した。この各国の政府組織や主要な指導者を詳細に紹介した本は、その後、長期にわたって、ジャーナリストや研究者たちにとって不可欠の書となった。
この時期におけるもう一つの重要な出版物は、昨年の世界の動向を振り返る雑誌が 年次刊行され始めたことである。これもまた二〇年代に末に始められたプロジェクトだが、三〇年代にはいるとさらに本格化していった。ロンドンの国立国際問題研究所が発行していた同様の国際政治年次概況を執筆していたのは、かの有名な歴史家、アーノルド・トインビーで、これはすでに高い評価を得ていた。評議会のプロジェクトも、おもに彼らと同じ主旨にたつものだった。三〇年代初期における三冊の国際政治年次概況を書き下ろしたのは、著名なコラムニスト兼編集者のウオルター・リップマンで、その後も、戦争が始まるまでこのプロジェクトは継続された。
戦後このプロジェクトは復活され、「世界情勢と米国」(United States and World Affairs)が毎年出版されるようになる。これらをまとめたのは評議会の代表的知識人の一人であるジョン・キャンベル。そして、その後、一九七〇年にこのプロジェクトが打ち切りとなるまで、キャンベルの仕事を引き継いだのが、リチャード・ステビンスだった。(打ち切りとなったプロジェクトを補完すべく、一九七八年から一九九三年まで、フォーリン・アフェアーズの別冊として「米国と世界」号が出版された。 ステビンス同様、ハーバードにおけるランガーの弟子だったキャンベルは、四〇年以上にわたって、評議会の研究プログラム(Study Program)、そして、フォーリン・アフェアーズ誌上における、ソビエト、東ヨーロッパ、そして中東関係の著作の書評を担当した。
外交問題評議会と外交問題委員会
一九三〇年代末、評議会のリーダーたちは、外交問題評議会をモデルとした小規模な組織を可能な限り多くの地域において設立することは、公共の利益に叶う行為であると考えるようになる。当初、このプロジェクトを取り仕切ったのはフランシス・ミラーだった。カーネギー財団から提供された基金を基に、ポートランドからオレゴン、ヒューストンからデンバー、そしてデモインにいたるまで、米国の一三の都市に外交問題委員会(Committee on Foreign Relations)が組織された。
これらの委員会は、それぞれのコミュニティにおける多様な職種の人々をメンバーとし、その運営は各委員会が独自に行った。評議会側は、評議会のスタッフを含む有力なスピーカーを送り込むことで、彼らの活動を支援した。評議会と委員会の間の緩やかな関係は見事に機能した。各地の委員会は自らの地位を確立させ、国際問題の理解を深めるための重要な組織として成長していった。当初 一三の都市において設立された委員会だったが、その後着実にネットワークを拡大させていった。現在では、米国の三七の都市に外交問題委員会が存在し、各委員会の代表者が年に一度ニューヨークの評議会において年次大会を開いている。私自身、幾度と無く委員会で講演を行った経験から言うと、委員会が、評議会が自らのメンバーに求めた条件を見事に踏襲し、多様な見解と立場にたつ人物たちによって構成された開放的な組織であることは間違いない。
一九三〇年代、評議会は、出版、研究の双方において着実な進歩を遂げた。最初の二〇年間は、パーシー・ビッドウェルが議長をつとめ、その後は、コロンビア大学・ ロシア研究所のフィリップ・モスレーがその任にあたった評議会の研究部門、スタディ・プログラムも、その活動領域を広げていった。評議会は研究課題に関する専門家集団だけでなく、他の部門の専門家をもメンバーとするバランスのとれた研究グループを組織し、研究課題に関する超一流の専門家がそのレポートをまとめるというスタイルを採用した。このスタディ・プログラムのレポートは、評議会のメンバーたちに配布されただけではなく、時には、出版物として世に送り出されることもあった。
一九三九年の秋に、第二次世界大戦が勃発し、評議会にとってもっとも野心的なプロジェクトが開始されることになるが、そのさいに大きくものをいったのが、この研究グループの編成法とそれまでの経験だった。(訳注:外交問題評議会のスタディ・プログラムは、通常の研究所とは異なり、問題ごとに、研究プロジェクトに参加するにふさわしい人物を選び、一定の期間内にレポートをまとめあげ、その後は解散するという、いわば、タスク・フォース的な手法を用いている)。
一九三九年から一九四五年
ここで言うもっとも野心的なプロジェクトとは、「戦争と平和に関する研究プロジェクト」(War and Peace Project)である。これは、一九三九年末に開始され、戦争が終わる一九四五年まで実施された。評議会の他のプロジェクト同様、これもまたアームストロングの発案によるものだった。このプロジェクトは、パリ講和会議の際に、大統領に(国際状況をめぐる)適切な知識と情報が与えられていなかったこと、 そして、第一次世界大戦後の米国政府が国際情勢への十分かつ妥当な認識を持っていなかったことへの反省を教訓としていた。
ヨーロッパ大戦が勃発したのは一九三九年九月。アームストロングと彼の右腕であるウオルター・マロリーは、その1週間後に、ワシントンへとむかった。彼らは、 評議会の経験と優れた人々を見いだす能力を政府に提供しようと申し出たのである。 研究、政策立案部門を持たず、また、そうした活動に必要な予算も持っていなかった一九三九年一二月当時の国務省は、評議会の申し出を受け入れ、評議会の研究グループとの連絡部門を新たに設置した。
ロックフェラー財団の支援の下、戦争がどのように推移し、それが、世界と米国に どのような影響を与えるのか、そして、不測の事態に備えるためにどのような対応をなすべきかをテーマとする四つの研究グループが組織された。この枠組みの下、この四つの研究グループはそれぞれ六人ばかりのメンバーで月に一度ニューヨークで会議をおこなった。その後、経済、金融、安全保障、領土問題をめぐる研究グループが設 置され、さらに、講和をテーマとする研究グループも設置された。
その二年後には、米国も戦争に参戦し、当然、評議会と国務省の協調関係は強化されていく。各研究グループの議長が一同に会し議論を行うこともあったが、大きな流れを形成したのは、膨大なレポートをまとめあげた各研究グループのメンバーたちで 、最終的には、彼らは七〇〇もの文書をまとめあげている。経済研究グループは、米国と英国の経済協力の重要性を特に重視し、領土問題を担当したグループは、戦後に おける国境線、信託統治、人口問題も検討していた。後に、設けられた和平・講和問題をテーマとする研究グループは、当時占領されていた諸国の今後についての研究を進めた。この戦後処理問題を担当したグループの研究成果が、包括的な報告書という形で残されることはなかったものの、私は、いずれ直面することになる問題を検討したという点で、これはきわめて重要なプロジェクトだったと考えているし、彼らがまとめあげたレポートだけでも、十分な成果を挙げたと考えている。彼らはその後も政府との接触を維持し、才能ある人物を発掘するための、ありとあらあゆるつながりが形成された。また、アームストロングを含む、このプロジェクトに参加した人物の一部は、(国際連盟設立をめぐる)一九四五年のサンフランシスコ会議にも列席している 。政府との協力という点で、このプロジェクトは、評議会だけでなく、米国の全ての民間研究機関にとっての、最高の範を示したと私は考えている。
戦争と平和に関するプロジェクトにおいて、大きな役割を果たしたもう一人の人物は、経済研究グループを率いたウィリアム・ディーボルトである。彼はその後世界的なエコノミストとなり、フォーリン・アフェアーズの経済関連の書評欄も担当した。また、自らも数多くの論文を発表し、評議会が手がけた経済プロジェクトの多くにおいて、そのリーダーシップをいかんなく発揮した。
戦後研究グループ
この研究プロジェクトの枠組みは、戦後においても広く踏襲されることになる。国連が平和をうまく維持していくのが難しく、世界的に不安定な状態が続くことは誰の目にも明らかだった。評議会は、マイケル・ワラのリーダーシップのもと、一九四五年から五年間の間に、二七の研究・討論プロジェクトを組織している。こうした研究グループの多くは、おもにヨーロッパの問題をテーマとしていたが、そのうちの一つのプログラムの議長を務めたのが、当時コロンビア大学の学長だったアイゼンハワーである。勿論、他の地域が軽視されていたわけではなく、日本、そして国連の組織も分析・研究の対象とされた。
評議会の研究そのものが、直接的にマーシャルプランやNATOの創設につながったとはいえないにしても、その全般的な枠組みの構築という点で、評議会の研究グループがヨーロッパの戦後復興計画に果たした役割は大きい。米国の戦後政策の主要な構築者である、ディーン・アチソン、ウィル・クレイトン、ジョージ・ケナンはすべて評議会のメンバーである。(もっとも、彼らが当時の研究グループに参加していたわけではない)。
評議会のメンバーたちは、マーシャル・プランやNATOに象徴される米国の戦後政策の方向性を強く支持していた。ジョージ・マーシャル国務長官が一九四七年六月に欧州復興計画を開始したとき、政府との協力の下、数多くの民間組織がこのプロジェクトを支援すべく結成されたが、なかでも最も力のあったマーシャル・プラン委員会(CMP)のメンバーの多くは、評議会のメンバーたちだった。政治的に偏向しないという設立の理念に従って、評議会そのものが争点の一方を明確に支持したことは一度もなかったが、それが、メンバー個人としてであれば話は別だった。実際、第二次世界大戦勃発の直前にも、メンバーの多くは、(米国のヨーロッパへの介入を支持し)、それに即した行動をとっている。
一九四七年の春から、一九四八年の春の間に、マーシャル・プランに対する市民、 そして議会の態度は大きく変化した。当初米国市民の大多数はこの計画を支持していなかったが、議会は一九四八年春に、必要とされる予算を完全に認めた上で援助法案を通過させたのである。ここにおいて評議会が担った役割は、マーシャルプランの理念をさらに押しすすめ、広く米国市民の理解を得ていくことだった。いずれにせよ、 私は、いかなる歴史基準から見ても、米国による欧州復興計画は、戦後米国政府が採用したもっとも寛大で賢明な政策だったと考えている。
ケナンとX論文
この一九四七年という重要な年の春、米国民は、フォーリン・アフェアーズ誌上において、ソビエトに対する基本政策がどうあるべきかをめぐる合理的論拠を目にすることになる。ジョージ・ケナンのX論文はすでに歴史の一部であるが、ことのいきさつは次のようなものだった。まず、海軍長官のジェームス・フォレスタルが、ケナンに対して、彼がすでに1946年の2月に(モスクワから)打電していた(ソビエトの行動をめぐる)「長文の電報」の内容にそって、ソビエトに対する見解を新たにまとめるように求めた。ケナンはこれに応じて、自らの見解をまとめ、その要旨を評議会で発表した。当時評議会の議長だった、ジョージ・フランクリンは即座に、これをアームストロングに伝え、アームストロングは、これを論文として一九四七年の七月号に発表したのである。当時、ケナンは国務省の政策企画室の室長を引き受けたばかりだっため、これを、当面の間はXという人物による匿名論文としたいと申し出、アームストロングも気乗りはしなかったもののこれを受け入れた。X論文が掲載されている一九四七年七月号は、いまでもコレクター・アイテムだし、この論文の需要は、 いまだに、他の論文を圧倒的に引き離した第一位を維持しており、しかも、いまでも読者の需要は高まり続けている。
ランガー・プロジェクト
ここで1940年代のもう一つのプロジェクトについて触れておこう。1945年 、評議会の研究委員会は第二次世界大戦への米国の介入の外交的背景、および戦中期の外交に関する、バランスのとれた権威ある研究が必要だと考えた。彼らは、決定的な重要性をもつ時期に関する優れた歴史を残すことだけでなく、一九二〇年代末、および、一九三〇年代において、米国の第一次世界大戦への介入めぐる混乱した議論が展開されたのは、第一次大戦への介入をめぐる正確な情報が欠落していたためであり、また、そうした混乱が、一九三〇年代の米国外交を麻痺させてしまったことを十分認識し、これを繰り返してはならないと考えたのである。さらに、彼らは、たとえ、ある種のバイアスや特殊利益が米国の第一次世界大戦への介入決定に影響を与えていたとしても 、一九三七年から一九四一年、そして戦争の終結にいたるまでの(第二次世界大戦の場合は)話は別だと考えていた。
戦争が終わり、OSS(戦時中の諜報機関でCIAの前進)の分析・評定部門の職務から解放されたウイリアム・ランガーはハーバードに復帰したばかりだったが、すでに緻密さと総合的分析を行う外交史の大家としての地位を確立させていた 。したがって、彼にこのプロジェクトがまかされたのは、きわめて妥当な人選だったといえよう。これは、当初四年間のプロジェクトとされていたが、ランガーが一九五〇年に、CIAの国家分析部門の設立の責任者に任命されたため、第二次世界大戦への介入をめぐる二冊の本が最終的に発行されたのは、一九五三年となり、しかも、これらが完全に戦中期の外交をカバーしていたわけでもなかった。
ここで、このプロジェクトに関する評議会と国務省の了解ごとについて指摘しておくべきだろう。ランガーと彼のスタッフたちは、このテーマに関する全ての関連書類へのアクセスを認められていたが、その条件は次の二つだった。第一は、彼が閲覧を希望する全ての文書は、安全保障上の観点からのチェックをうける。これは国務省側の条件だった。(勿論、すでに戦争が終わっている以上、この条件は柔軟なものだった)。もう一つは、評議会側が示した条件で、彼が著作のなかで言及した文書の全ては、著作の出版と同時に解禁し、歴史家が閲覧できるようにすることだった。
私は、ランガー・プロジェクトをめぐって、評議会側が示したこの条件はきわめて重要だったと考えている。実際、ディーン・アチソンは、回顧録を執筆するにあたり、彼が著作において使用する外交文書の全てを回顧録の発行と同時に解禁することを主張した。大統領の自伝に関しては法律上の制限が存在するが、国務長官や国家安全保障担当顧問たちによるその後の回顧録が、ランガーやアチソンの先例に従っていないことは何とも残念である。
ランガー・プロジェクトの結果誕生した2冊の本は、現在でも、米国の第二次世界大戦への介入過程に関する重要な著作であり、その誠実かつ包括的な内容は広く評価されている。介入前のルーズベルト外交をめぐる穏当な批判や、修正主義的批判はともかく、このプロジェクトの成果によって、その後、第二次世界大戦への介入、非介入をめぐって一九三〇年代のような錯綜した論争が起きなかったのは確かである。
大量報復戦略とキッシンジャー
アイゼンハワー政権には、評議会の有力なメンバーである、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレスが、それぞれ国務長官、CIA長官に任命された。また、すでに指摘したように、アイゼンハワー自身、彼がコロンビアの学長だった時代に、評議会に関心をもち、NATOの最高司令官としてヨーロッパに再び赴任するまで、評議会の研究グループの議長をつとめていた。つまり、評議会のメンバーがどれだけ米国政府の中枢に位置したかという点で見れば、アイゼンハワー期はそのピークだったといえよう。
とはいえ、一方で評議会は、アイゼンハワー政権の政策に批判的な政策プロジェクトを実施している。評議会は、政府の内外を問わず、当時の中核的問題だった核兵器と国内政策の双方において、アイゼンハワー政権に批判的な立場をとったのである。
ダレス国務長官が、核兵器、あるいは、核兵器を含むより広範な報復攻撃の意図を示唆することで、共産主義勢力などの拡張主義的で攻撃的な勢力の行動を抑止しようとした戦略、つまり、後に、「大量報復戦略」として知られることになる戦略の詳細について論じたのは一九五四年一月の評議会の講演会においてだった。その後、この演説は、文書化され、フォーリン・アフェアーズに論文として掲載されたが、この論文は、いまだに大量報復戦略に関する最も権威ある公的な説明である。
評議会の研究プロジェクト委員会は、安全保障と文書の非公開という問題をクリアーできれば、即座にこの戦略をめぐる研究プロジェクトを組織すべきだと判断した。かなりの数の専門家をあつめた研究グループが組織され、結局、この戦略における核兵器の役割が詳細に検討された。アームストロングとジョージ・フランクリンが、このグループの研究の議長役をつとめ、アーサー・シュレシンジャー、マクジョージ・ バンディ、ウイリアム・エリオットがこぞって推薦する、若いハーバードの教授がレポートをまとめる責任者に抜擢された。リベラルから強硬派という多様な顔を持つこの人物の名前は、ヘンリー・キッシンジャー。彼は、このプロジェクトによって、米国外交における重要人物としてのデビューを飾ることになる。
すでにプロジェクトがかなり進行している段階になって研究グループのメンバーとなったキッシンジャーだったが、その後しだいにリーダーシップを発揮するようになり、彼は、自らが後に出版することになる著作の議論とほぼ同様の方向へと研究グループの議論を導いた。(もっとも、他のメンバーたちもおおむね彼の立場と同様の見解を持っていた)。キッシンジャーは、一九五五から五六年にかけて、大学を休職し、評議会での研究に打ち込み、その翌年には、広く社会の関心を呼び、数カ月にわたってベストセラーとなった「核兵器と外交政策」を出版する。その分析が優れていることは、誰もが認めるところだが、米国は「限定的な核戦争」能力とそれを使用する意思をもつべきだ、という彼の大胆な結論に関しては次第に疑問視されるようになる。
出版から六年後、西ヨーロッパの安全保障を論じた評議会の研究を基に出版した著作において、キッシンジャー自身それまでの立場を変え、核戦争がひとたび開始されれば、攻撃が中途で停止される可能性は現実的には存在せず、したがって、「限定的な」核戦争などあり得ないと結論した。とはいえ、キッシンジャーによる「核兵器と外交政策」と研究グループの作業が、核兵器という重要な問題をめぐる歴史的議論を一歩押し進めたのは間違いない。
こうしてキッシンジャーは、評議会のレギュラー・メンバーとなり、彼が政権入りする一九六九年までに、一二本を越える論文をフォーリン・アフェアーズに発表している。この時期、キッシンジャー同様に、頻繁に論文を寄稿するようになったのが、ハーバード出身のもうひとりの優秀な学者、ズビグニュー・ブレジンスキーである。一九五〇年代から六〇年代にかけて彼は八本の論文を寄稿している。
一九六〇年代
六〇年代には、ディーン・ラスク、マクジョージ・バンディを始めとする評議会のメンバーの多くが政府の要職につき、さらに、ケネディ大統領自身、五〇年代にフォーリン・アフェアーズに論文を発表しており、評議会との関係浅からぬ人物だった。 これは、私が、マイケル・ワラから聞き及んだ話だが、米国政府の要職についた人物のバックグランドを調査したある社会学者の研究によれば、政府高官にしめる評議会メンバーの比率は、ケネディ、ジョンソン期のほうが、アイゼンハワー期にもまして高かったそうである。(アイゼンハワー期の政府高官の四〇%が評議会のメンバーだったのに対して、ケネディ期は四二%、ジョンソン期は五七%だったとこの研究では指摘されている。)だが、この数字はかなりおおざっぱな気がする。私自身これら三つの政権全てに参画した訳だが、私は、「評議会志向」とでもいうべき人物たちの政権ポストにしめる比率は、アイゼンハワー期に比べ、ケネディ、ジョンソン政権期にはかなり低かったように感じている。実際、ケネディや、ジョンソンが、特に評議会のことを気にしていた様子は全くなかった。
中国プロジェクト
評議会にとって、六〇年代における研究プロジェクトの最たるものといえば、何と言っても、西欧の今後についてのプロジェクト、そして当時はおおむね無視されていた中国をめぐる大規模なプロジェクトである。これらの研究に付随して、数多くのレポートが出版されている。米国と中国の関係はそれまで長期にわたって凍結され、多くの人々は、中国に強い敵意を抱いており、近い将来に両国の関係が好転するなどとは全く考えられていなかった。
豊富なアジアでの経験をもつロバート・ブラムが取り仕切った評議会の中国プロジェクトは、米中関係の変化が不可避であること、そして、これまでの外交政策面に的を絞った中国研究を越えた、より包括的な中国研究が必要だという認識の下に実施された。ブラムは、このプロジェクトには、中国の専門家の意見だけでなく、世論の対中認識の分析を盛り込む必要があると考えていた。実際、このプロジェクトをつうじて出版された著作のなかでもっとも重要だったのは、その第一巻、つまり、第一級のジャーナリストであるアーチ・スチールがまとめた米国における対中世論の分析だったといえよう。スチールは、研究委員会そして読者の双方にとって意外な結論を示した。「共産中国」に対する敵対的な感情は、米国の政策決定者たちが考えているほど 、根強くもなければ、広範でもなく、実際、米国人の殆どは大陸中国の政治体制が共産主義であることさえもしらないし、中国共産党が一九四八―四九年に大陸における実権を確立させた時、また、一九五〇年末に中国が朝鮮戦争に介入し戦局を大きく変化させた時のような、中国に対する強い敵対感情はもはや残っていないと指摘したのである。
スチールがまとめたこの巻だけでも、おおきな社会的貢献だった。これに続いて刊行された巻も、一九五〇年代の中国研究のレベルのはるかに上をいく、より踏み込んだ分析を提示し、中国に関する真に実質的で、論争に値するテーマを浮き彫りにした。
一九六七年に出版された最後の巻を担当したのはブラムだったが、彼が作業半ばにしてこの世を去ったため、若いながらも、すでに優れた中国研究家としての名声を手にしていたドーク・バーネットがこの任を引き継いだ。この最終巻は次のような力強い結論で結ばれていた。米国にとって、中国との関係を正常化させることはきわめて重要であり、関係の修復作業は、(文化大革命による)中国の国内的混迷や彼らの攻撃的な対外行動が沈静化し、落ちつきをみせた段階で、即座に始められるべきである、と。こうした結論が実際の政策にどのようなインパクトをもったかを見極めるのは困難だが、私は、この評議会による中国プロジェクト、そしてその出版物が、中国問題を真剣な議論の対象とし、米国がより現実的な対中アプローチをとるための重要な背景・基盤を提供したと考えている。
ニクソンと中国
ここで話題を変え、何かと議論を呼んだ評議会がらみの論文、つまり、リチャード・ニクソンが一九六七年の一〇月にフォーリン・アフェアーズ誌上で発表した論文について触れておこう。ニクソン自身を含む多くの人々が、この論文をつうじて、キッシンジャーによる一九七一年の中国訪問、そして中国との全面的和解が、示唆されていたと主張している。だが、論文を詳細に検討してみれば、この主張が現実的な根拠を持っていないことは明らかである。たしかにこの論文は、当時の東アジアの状況に関する、明確かつ注目に値する分析を提示しているが、中国に関する議論は、殆ど脅威としての中国という視点を軸になされており、むしろ、中国封じ込めのための連帯が必要だというのがその主要な議論なのである。(対中関係の改善という点で見れば)、論文の後半部において、中国を今後も永続的に孤立させたままとしておくのは無理だとする主張がごく簡単になされているに過ぎない。ブラムとバーネットがまとめた著作と比較して、ニクソンの論文が前向きのものだったとはおよそ言い難く、むしろ、それは後ろ向きの議論、つまり一九五〇年末の議論の焼き直しにすぎなかった。一九九二年の、創刊七〇周年記念号のある論文では、ニクソン論文が「センセーション」を巻き起こしたと指摘されているが、論文が社会に与えたインパクトがセンセーショナルなものだったとは到底言いがたい。
ベトナムとフォーリン・アフェアーズ
当初小規模だった介入が、次第に全面的なものへと拡大していったベトナム戦争に関する評議会の研究も、この時期の研究プロジェクトのハイライトだったといえよう。この研究プロジェクトには私自身時折参加したが、会議の支配的ムードは、政府の政策に対して批判的なものだったし、その批判的立場は、一九六五年から一九六八年にかけてますます尖鋭になっていった。こうした態度の変化は、アームストロング自身の編集方針にもみてとれる。彼は、当初政府の政策を支持する論文をいくつかフォーリン・アフェアーズに登場させたものの、一九六九年には、ベトナムからの早期撤退を主張したクラーク・クリフォードの力強い論文を掲載し、その後、一九七二年の彼が編集した最後の号では、アームストロング自ら、ベトナム戦争は、米国の海外における立場を失墜させているだけでなく、国内状況をも悪化させていると嘆く論文を執筆している。彼の論文のなかでも、これは、もっとも鬼気迫る内容のものだったといえよう。
この時期、評議会自身も混乱し、動揺していた。そうした中、評議会も、(当時における米国の大学同様に)組織的、機構文化的なあり方を再検討し、大幅な組織改革を行った。女性を評議会のメンバーとして受け入れることが決定されただけでなく、一九七〇年以降は有能な若い人物を「一定期間」メンバーとして受け入れるシステムも導入された。さらに、評議会のワシントン・オフィスの活動をアルトン・フライのリーダーシップの下に充実させ、評議会の理事長を常勤として、その報酬を支払うことも決定された。(それまで、評議会の理事長には高名な政治家が就任し、彼らに報酬は払われていなかった)。
一九七〇年代と八〇年代
この時期における、評議会の活動はきわめてに多岐にわたっており、簡単に要約するのは困難だが、あえて一つを指摘するとすれば、一九七三年に開始された、いわゆる「一九八〇年代プロジェクト」が妥当だろう。一九二〇年代、評議会の活動および研究の多くが、国際機構およびその可能性について費やされていたが、多くの点でこの「一九八〇年代プロジェクト」は、一九二〇年代の活動を思い起こさせるものだった。評議会は、ベトナム戦争の余波のなかで、米国の政策および市民の関心の方向性が変化する可能性があり、またそうあるべきだと考えていた。一九八〇年代プロジェクトは、独創性に富んだ理念を提供した。しかし、米国は程なく冷戦枠組みへと回帰し、このプロジェクトの成果が、現実において実践される機会は失われてしまった。
一九七二年から一九八四年まで、私が編集長を務めたフォーリン・アフェアーズに関して言えば、一九七三年の中東戦争、そして第一次石油ショックの前の段階で、 ウオルター・レビーとジェームス・エイキンスによる石油やエネルギー政策についての論文を掲載したが、特に大きな社会的関心を引くことはできなかった。石油危機が 現実になると、フォーリン・アフェアーズは、石油、エネルギー問題を重視しただけ でなく、それが金融、経済にどのような影響を与えるかについての論文も掲載した。 しかし、これらの論文に対しても社会的な反応は今一つだった。一般的にいって、当時の米国の指導者や政府の政策は、マーシャル・プランのような(国際的な政治・経済政策のリンクを)殆ど考慮していなかったのである。一九七〇年代、一九八〇年代初期に、経済問題を外交雑誌で論じるのは、あまりに先鋭的過ぎたのかもしれない。
一九八〇年代半ばに、政治・戦略問題の専門家であるウイリアム・ハイランドが編集長に就任し、フォーリン・アフェアーズは、再び政治、戦略問題を中心とした雑誌になる。そして現在は、ジャーナリスト、編集者としての幅広い経験をもつジェームス・ホーグが編集長となり、冷戦期における単純化された議論にかわって浮上してきているポスト冷戦時代の多様な問題を反映できるような新たな編集方針をもって舵取りを行い、 雑誌のレイアウトやフォーマットも一新された。 時代は流れても、フォーリン・アフェアーズはいまだに創刊期の信条を守り、異なる見解の持ち主の論文を幅広く掲載し、なおかつ、その時代における統合的なテーマや原則を見いだそうと試みている。フォーリン・アフェアーズの読者は着実に増え、現在その発行部数は十一万に達しようとしている。おもに外交政策を専門とする雑誌としては、この数字は、全く他の追随を許さないものといえよう。
もはや七十五周年を迎えようとしているとはいえ、外交問題評議会、評議会の研究プロジェクト、そしてフォーリン・アフェアーズは、国際問題、そして国際社会における米国の役割をめぐる議論の最先端をいまでも走り続けている。米国社会における 研究財団のなかで外交問題評議会の歴史が特に長いというわけではない。にもかかわらず、評議会がかくも重要な役割を果たし、現在もなお重要な役割を担い続けているという輝かしい事実が、評議会の設立者たちの予想や期待をはるかに上回るものであるのは間違いない。●
ウィリアム・バンディは、CIA、国防総省(国防次官補、国防次官)、国務省(東アジア・大平洋担当国務次官)などの政府要職を歴任した後、一九七二年から 一九八四年までの一二年間にわたってフォーリン・アフェアーズの編集長を務めた (なお、この論文は、彼がプリンストン大学において行った記念講演の抄訳である)。
Armstrong, Hamilton Fish. Peace and Conterpeace: From Wilson to Hitler; Memoirs of H.F.A. New York: Harper & Row, 1971
Armstrong, Hamilton Fish, and Allen W. Dulles. Can We Be Natural? New York: Harper & Brothers for Council on Foreign Relations, 1936. The Challenge to Isolation, 1937-1940. New York: For Council on Foreign Relations, 1952
Blum, Robert, Awakening American education to the World: The Role of Archibald Cary Coolidge, 1866-1928. Nortre Dame: University of Notre Dame Press, 1982
Hyland, William G., "Foreign Affairs at 70," Foreign Affairs, Fall 1992, pp.171-193
Langer, William L. and Everett Gleason. The Undeclared War, 1940-1941. New York : For the Council on Foreign Relations, 1952
Perloff, James, The shadow of Power: The Council on Foreign Relations and the American Decline. Appleton, Wis.: Western Islands, 1989
Santoro, Carlo Maria. Diffidence and Ambition: The Intellectual Source of the United States Foreign Policy. Boulder: Westview Press, 1992
Schulzinger Robert D, The Wise Men of Foreign Affairs: The History of Council on Foreign Relations, New York: Columbia University Press, 1984
Shepardson, Whitney H. Early History of the Council on Foreign Relations. Stamford, Conn: The Overbook Press, 1960
Shoup, Laurence H. and William Minter, Imperial Brain Trust: The Council on Foreign Relations and United States Foreign Policy, New York, 1977.
Steele, A.T. The American People and China, New York: For the Council on Foreign Relations, 1966. ( A volume in the United States and China in World Affairs series.)
Wala, Michael. The Council on Foreign Relations and American Foreign Policy in the Early Cold War, Province, R.I.; Berghahn Books: 1994
Copyright by William P. Bundy, 1994 & Foreign Affairs, Japan