1994年以降に発表された邦訳論文を検索できます。

テーマに関する論文

競争力という名の危険な妄想

1994年5月号

ポール・クルーグマン マサチューセッツ工科大学教授

「国家が直面する経済問題を、世界市場をめぐる競争力の問題とみなし、コカ・コーラとペプシがライバルであるのと同様に、米国と日本がライバルであるかのようにとらえる見方」がいまや普遍的になされ、「貿易収支を国家の競争力の目安」とする考えがもてはやされている。その結果、「輸入によって高賃金の雇用が失われ、補助金をバックにした諸外国の競争によって、米国は高付加価値部門からの締めだされつつある」という認識が定着しつつある。だが、企業と国家を同一視し、貿易収支を国の競争力の目安と見るのは、完全な誤りである。競争力を軸とする誤った前提を今後も受け入れ続ければ、国内・国際経済の双方における誤った政策の採用に道を開き、国内の生産性は停滞し、貿易紛争の激化は不可避となる。なぜ、経済問題に対して競争力を軸とする説明がなされがちで、それが安易に受け入れられてしまっているのか。どうしてそれが誤っているのか、われわれはその前提を根本から検証し直す必要がある。

「文明の衝突」批判に応える

1993年12月号

サミュエル・ハンチントン ハーバード大学教授

混迷する現在の世界を説明できるパラダイムが、文明のパラダイムでないというのなら、いったいそれは何なのだろうか。普遍主義や、国家パラダイムで現状を説明できるはずはない。冷戦の終結とともに、「歴史が終わった」わけではなく、世界が一つに統合されたわけでもない。そこにあるのは、異なる文明に属する国家や集団間で繰り返される衝突ではないか。「人々が自らのアイデンティティを確認する際に重視し、そのために戦い、命をかけることも厭わないのは、(イデオロギーや経済利益ではなく)信仰、家族、血のつながり、信条といった(文明的)要素」だからだ。この文明衝突の力学を封じ込めるには、その力学の本質を見極めない限り不可能だ。西洋人は、近代化を遂げた他の人々も「われわれのように」なるべきだと考えているが、これはむしろ西洋の奢りであり、こうした考え自体、文明の衝突を引き起こす要因になる。切実に必要とされるのは、異なる文明の本質を見極め、「他の文明と共存していくすべを学んでいくこと」にほかならない。

文明の衝突
――再現した「西欧」対「反西欧」の
対立構図

1993年8月号

サミュエル・P・ハンチントン
ハーバード大学政治学教授

ポスト冷戦時代の「X論文」とも評されるこの「文明の衝突」は、ハンチントンがそもそもハーバード大学のオケーショナル・ペーパーとして書き下ろしたものを、「フォーリン・アフェアーズ」に掲載するためにまとめ直し、その後の大反響を受けて『文明の衝突』という著作として加筆出版されたという経緯を持つ。発表と同時に世界各地でマスコミに取り上げられたこの壮大なスケールの論文は、政治家、歴史・政治学者にはじまり、人類学者、社会学者に至るまで広範な分野の専門家を巻き込んでの大論争となった。ハンチントンはポスト冷戦時代を、イデオロギー対決の時代から、宗教、歴史、民族、言語など文明対立が世界政治を規定する時代になると予測し、集団をとりまとめる求心力は文化や文明となり、紛争の火種もまた自らの文明に対する認識の高まりや文明の相違から生じるだろうという見解を示した。

行政指導と終身雇用の終わり ―― 「日本株式会社」の復活はない

1993年6月号

ピーター・F・ドラッカー クレアモント・グラジュエート・スクール教授 (論文発表当時)

いまや日本人は、日本のシステムからの「退出」路線を選ぶほうが、政府の政策を変えようと試みるよりも好ましいと確信しているようだ。運命共同体的な日本企業も二分され、競争力のある企業は自分だけのボートを保有するようになり、その結果、競争力のない企業が救済措置を求めて日本政府へ影響力を行使することにも異を唱えなくなった。日本の銀行や政府が、形ばかりの再建案と引き換えに、いまも債務まみれのゾンビ企業への新規融資や公共事業を提供するなか、競争力のある日本企業、老後を 心配する市民、若い女性たちはこれまでの日本のシステムから退出しつつある。

日本問題
―― 異質な制度と特異性に目を向けよ

1986年1月号

カレル・ファン・ウォルファレン

日本における政治と政治手法は、ほかのアジア諸国や欧米のそれとはまったく違っている。日本は過去数世紀にわたって、互いに権力を分かち合う、半自立的な諸集団間のバランスを注意深く保つ政治スタイルをずっと維持してきた・・・

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