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テーマに関する論文

「中国脅威論」に惑わされるな

1997年5月号

ロバート・ロス  ボストン・カレッジ政治学教授

現在の対中アプローチをめぐるさまざまな議論は、「過大評価された中国の戦略的能力」を前提として受け入れたうえで、中国側のさまざまな「意図」や目的を憶測し、それへの対応策を主張している点で、危険きわまりない。というのも、中国の軍事能力は実際にはいわれるほど強大ではなく、であればこそ、現在中国は穏健路線をとっているからだ。米国とアジアの同盟諸国にとっての東アジアにおける死活的な利益とは、「安定した地域的勢力均衡」を維持することにあり、また中国にとっても、国内資源を経済的基盤に重点的に振り向けるのを可能とする「現状」の維持は利益なのだ。われわれの政策の目標は、中国との共通利益に注目し、彼らが「地域的な安定のなかに見いだす利益をより堅固なものにすることで、グローバル秩序の安定に向けた中国側のコミットメントをいっそう強化すること」でなければならない。闇雲な中国脅威論は、懸念される事態を現実へと導く悪しき処方箋にすぎない。

台頭するヨーロッパの地域主義

1997年4月号

ジョン・ニューハウス  米国務省顧問

EU統合の力学の一方で、ヨーロッパでは経済成長を共通目的とする国境を超えた都市や地域間のつながりが、ある時は自然発生的に、またある時は意図的に形成されつつある。鍵を握るのは、シュツットガルト、バルセロナ、リヨン、ミラノの周辺地域、言い換えれば、ドイツのバーデン・ビュルデンブルグ、スペインのカタルーニャ、フランスのローヌアルプ、イタリアのロンバルディアの各地方が中核となってつくりだしている二つの「スーパー・リジョン〈スーパー地域〉」である。EU、国民国家、地域主義という、相互に関連しながらもそれぞれに異なる三つの潮流の離合集散は、ヨーロッパ、そして世界の経済・政治秩序にどのような影響を与えるのだろうか? 国民国家は、地域主義と超国家主義の力学の前に崩壊してしまうのか?

エリツィン後のロシア?

1997年4月号

デビッド・レムニック  前ワシントン・ポスト紙モスクワ特派員

ボリス・エリツィンの存在はいまやさまざまな「公約の破綻を具現するシンボル」にさえなっている。一九九一年の勝利が自由民主主義者たちによる堂々たる勝利だったとすれば、九六年のエリツィンの勝利は、寡頭政治階級の台頭に特徴づけられる。こうしたなか、エリツィンの心臓の具合や後継者をめぐる政治抗争によってモスクワが揺れ動いているのは事実だが、ロシアが共産主義という過去への逆コースを歩むことはありえない。現在のロシアは地域的・政治的により多元化し、民衆が過去への回帰を明確に拒絶し、しかも、今後ロシア経済が発展していく可能性が高いからだ。事実、二〇二〇年までにロシア経済は「中国経済とともに、ポーランド、ハンガリー、ブラジル、メキシコをはるか遠くに引き離して」追い抜いているだろうと予測する専門家もいる。「世界の一員としてのロシア」の新時代はすでに始まっている。

日本経済再生の鍵を握る「コーポレート・ジャパン」

1997年4月号

マイケル・ハーシュ 『ニューズウィーク』誌国際版ビジネスエディター  E・キース・ヘンリー MITシニア・リサーチ・アソシエート

海外投資の増大と国内投資の低迷という日本における現象の一部は、グローバル・マーケットの強い求心力、さらには、円高と日本経済の成熟への対応として純粋に経済学で説明できるものだ。だが、この現実は一方で、企業側の日本政府に対する鋭い批判でもある。というのも、現在日本企業が海外へと出ていくのは、もはや神通力を失った自国の硬直的な経済システムから脱出するためにほかならないからだ。グローバル市場の力学を見極め、自ら「日本株式会社」の遺産を放棄したこれら日本の「マルチナショナル企業」は、世界的に見事な成功を収めている。この事実は、「日本がついに国際的な没価値状況を脱し、世界の一部となりつつあること」、そして、日本のマルチナショナル企業がその先鞭を付けていることを意味する。「日本株式会社」ではなく、グローバル市場の力学に応じて企業形態やトランスナショナルな提携関係を構築する能力をもつ企業が、日本経済の今後の牽引車役を果たしていくだろう。

日本再生の鍵を握る「コーポレート・ジャパン」

1997年4月号

マイケル・ハーシュ 『ニューズウィーク』誌国際版 ビジネスエディター(論文発表当時)
E・キース・ヘンリー MITシニア・リサーチ・アソシエート (論文発表当時)

外国への投資が増大する一方で、国内投資が低迷するという日本における現象の一部は、グローバルマーケットの強い求心力、そして、円高と成熟した日本経済への企業の対応として純粋に経済理論で説明できる。だが、この現象は一方で、企業側の日本政府に対する鋭い批判でもある。日本企業が外国への投資を増やし、進出しているのは、もはや神通力を失った硬直的な日本の経済システムから脱出するためにほかならない。グローバル市場の力学を見極め、自ら「日本株式会社」の遺産を放棄したこれら日本の「マルチナショナル企業」は、世界市場で見事な成功を収めている。この事実は、「日本がついに国際的な没価値状況を脱し、世界の一部となりつつあること」、そして、日本のマルチナショナル企業がその先鞭をつけていることを意味する。「日本株式会社」ではなく、グローバル市場の力学に応じて企業形態やトランスナショナルな提携関係を再編し、構築する能力をもつ、こうした企業が、日本経済の今後の牽引役を果たしていくことになるだろう。

<レビュー・エッセイ> 外交問題評議会を支えた精神

1997年3月号

デイビッド・ヘンドリクソン  コロラド大学政治学教授

外交問題評議会は、『フォーリン・アフェアーズ』誌やその研究プログラムをつうじて、「学者たちを自らの狭い専門領域から解き放ち、ビジネスマン、弁護士、金融家により大きな眺望を与えることで(異業種、専門の異なる人々)のパートナーシップを形成し、・・・相互の洞察をたかめ、世論を啓蒙し、そして政府に警告を発し、啓発してきた」。いわゆる公益というものは「周到な分析と開放的な議論によって最大限に実現されることを謙虚に心しながら、多種多様な知性を動員して、急を要する国際問題に取り組むという点で外交問題評議会は最善の存在」だったし、これこそ評議会を傑出した存在としたクォリティなのである。

<レビュー・エッセー> ユーロペシミズムへの回帰?

1997年3月号

スタンレー・ホフマン ハーバード大学教授

「EUを、ヨーロッパ大陸を苛んでいるすべての問題に対する解決策とみなしている者は誰もいないが、それでもそれが主要な問題のいくつかの解決策であることに変わりはない。多くはヘルムート・コール、ジョン・メージャー、アラン・ジュペ、ジャック・サンテール(現欧州委員会委員長)の後に、どのような人物がリーダーシップを発揮するかにかかっている。・・・結局のところ歴史のコースに影響を与え得るのはリーダーシップと状況の推移なのである」

<レビュー・エッセイ> 人道援助活動の虚像と実像

1997年3月号

デイビッド・リーフ  ジャーナリスト

人道援助活動家たちの純粋な気持ちからの活動は賞賛に値するものだが、援助をめぐる「聖人伝」的な意図とそれに必要とされる資金力の間にギャップが存在するために、とかく資金調達の思惑がらみで、現地での悲惨さが誇張されたり、哀れを誘う子どもたちの写真が利用されている。さらに、「人道援助団体が軍事的介入を求めがちである」ことは、国際政治状況のなかでももっとも憂慮すべき事態である。「人々が苦しみ死んでいる地域にいる救援活動家たちを守るために軍隊を投入すべきだという考えは、結局は、より多くのソマリアのような事態を招き、解体した国家をG7諸国が軍事的に引き継ぐことを意味するだけだ」。おそらく現代の人道主義の本当の課題は、その能力の限界をわきまえ、資金調達のしがらみをいかに克服してその中立性を維持するかにあるだろう。

EMUは政治統合を促進する

1997年3月号

ピーター・サザーランド 前欧州委員会委員長

EUの大多数の諸国にとって、「通貨同盟の究極の合理的根拠とは、それがより大きなヨーロッパ統合形成の政治的戦略に寄与するという点にある」。ヨーロッパ諸国の政府が通貨統合を目指しているのは、その政治的決意を示すためなのだ。EMUへの参加資格をもっているかどうかを決定する際、EUは、通貨同盟が生き残るチャンスがもっとも高くなるように考慮してマーストリヒト基準を(柔軟に)適用することになるだろう。つまり、最終的な決着は「政治判断」によってなされ、最終決定が一九九七年末までに達成された経済指標の数値にもとづいてなされることはないだろう。どの加盟国が通貨同盟の将来的義務を果たせると見込めるか、つまり、より大きなヨーロッパ統合形成の政治的戦略に寄与できるか、これこそが判断基準になるはずだ。

ゴールドハーゲン論争

1997年2月号

フリッツ・スターン コロンビア大学歴史学教授

「ユダヤ人に苦しみや死を与えることへのドイツ人の忠誠は、上からの強制されたものではなかった。それは、ドイツ人の内側、自己のもっとも深い部分の発露だった」。ハーバード大学の政治学者・ゴールドハーゲンのこの見解は、大西洋の両岸で大きなセンセーションを巻き起こしている。だがゴールドハーゲンは、ユダヤ人に対するドイツ人の敵対的な「認知モデル」、「民族抹殺論的思考様式」という彼の「オリジナルな理論」を実証しようと、それに符合するような歴史的事例を寄せ集めただけで、全体的な歴史的文脈を完全に無視している。われわれは、粗野な感情と道徳的無関心の高まりが、第一次世界大戦期のヨーロッパで考えられぬほどの広がりをみせ、第二次世界大戦期にピークに達したことを思い起こすべきだし、そこにユダヤ人を助けようとしたドイツ人がいたことも忘れてはならない。ホロコーストは人道にもとる組織的蛮行がまかり通ったひどく長い夜に起きたいまわしい出来事であり、そのすべてをドイツ人の「認識モデル」や「思考様式」に帰することなどできない。

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