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テーマに関する論文

ロシア・ユーラシアニズムと「反西欧」の構図

1999年4月号

チャールス・クローバー 『ファイナンシャル・タイムス』キエフ支局長

ユーラシアニズムとは、「西欧とは異なるロシアのユニークなアイデンティティを確立させようとする試みのことで、ユーラシア中枢に位置するロシアを起点に南や東へと目を向け、この巨大大陸の東方正教会系の民族と、イスラム人口を地政学的観点から一つにまとめあげる」ことを構想している。具体的には、「国内の経済政策面では左派よりで、対外政策面でアラブ諸国を助け、東方世界に傾斜し、旧ソビエト地域の統合を強化する政策である」。すでにロシア共産党のジュガーノフ委員長や、プリマコフ首相は、ユーラシアニズムという理念を政治外交の世界で具体化させ、少なくとも、国内政治そして一部外交面でも勝利を収めつつある。伝統主義と集団主義をつうじて、ユーラシアにおける民族集団を一手に取りまとめ、反リベラル・反欧米のスタンスで大同団結させようとするこのロシアの試みは、「西欧(WEST)」、そして世界にとってなにを意味するのだろうか。

国家間戦争から内戦の時代へ

1999年3月号

スティーブン・R・デービッド ジョンズホプキンス大学政治学教授

冷戦が終わり、今や内戦がほぼ唯一の戦闘形態となった。国家間戦争ほど関心を引かないとはいえ、各国の内戦は紛争勢力の「本来の意図とは関係のないところ」で、国境を超えた破壊的衝撃を伴う。しかも、対外的にダメージを与えるという意図に導かれていないだけに、内戦の発生を抑止するのは難しい。例えばサウジアラビアだ。世界一の石油資源を持つこの国で内戦が起きれば、油田地帯が戦場と化し、紛争勢力にその意図がなくても、世界経済は瞬く間に窒息する。しかもサウジアラビアで国内紛争が起きる可能性は現実に高い。われわれは、一刻も早く「安全保障上の脅威のすべてが、一貫した信条を持つ敵対勢力によって周到に準備されているわけではなく、具体的目的に導かれているわけでもなければ」、適切な政策をとれば抑止できる性格のものでもないことを肝に銘じるべきだ。内戦への対応を考えない限り、われわれにとって軍事的選択肢は、自国防衛の強化か予防的先制攻撃の二つしかない。

フクヤマの愚かな議論

1999年3月号

バーバラ・エーレンリック  作家 /ブライアン・ファーガソン  ラトガーズ大学人類学准教授

「遺伝的に攻撃的な性質を持つ男性に代わって、より穏やかで争いを好まない性質を持つ女性が政治に参加し、その比重が増していけば、国際関係はより平和になる」。フランシス・フクヤマは、論文「もし女性が世界政治を支配すれば」でこう主張した。フクヤマは、男性(オス)の攻撃性は遺伝子に組み込まれているとし、その例として、オランダやタンザニアで見られたオスチンパンジー同士の残虐な闘いや、数万年前からあったとみられる男性による大量虐殺を挙げる。しかも、環境や文化をつうじて、遺伝子に刻まれた男性の攻撃的な性格を克服する試みには限界があると主張した。人類学、そして広く社会科学全般が、性、民族、人種の普遍性を基盤に、思想や理論を組み立ててきただけに、フクヤマの指摘は大きな波紋をよんだ。以下は、文化や環境から人間が受ける影響、フェミニズム、そして人類学の立場からのフクヤマ論文に対する重厚な反論。

新エネルギー資源の誕生

1999年3月号

リチャード・G・ルガー 米上院議員  ジェームス・ウールジー 元CIA長官

いずれは枯渇する石油資源、とくに中東石油への依存は、安全保障、環境、経済のどの側面でみても好ましくない。幸いにも、遺伝子工学の進歩、そして生成技術の発展によって、これまでの穀物エタノールから、遺伝子工学を駆使したバイオマス・エタノールへのシフトが起きつつあり、いずれ石油への依存から離脱するのも夢ではない。「エネルギー熱量は若干低いとはいえ、オクタン価でみれば、バイオマス・エタノールはガソリンをはるかに上回り、より高い燃焼効率をも持つ。さらに、温室効果ガスの排出を大きく削減でき、空気の質も改善できる」
この「科学的ブレークスルー」を放置して、しだいに先細りとなりつつある中東の石油資源への依存を続けるのは、経済,環境,国際安全保障のいずれの面でも賢明ではない。環境に優しく、価格的にも問題のない、バイオマス・エタノール実用化の時代がすぐそこまで来ており,その実用化へ向けて全力を注ぎ込むべきである。

高齢化社会という灰色の夜明け

1999年3月号

ピーター・G・ピーターソン  外交問題評議会理事長

人口のほぼ一九%が高齢者で占められるフロリダ。これと同じ状況に先進諸国が直面するのは,そう遠い未来の話ではない。二〇〇三年にイタリア、二〇〇五年に日本、二〇〇六年にドイツがもう一つの「フロリダ」となる。イギリス、アメリカ、カナダもほどなくこれに続く。先進国社会の急速な高齢化がもたらす諸問題とコストは、投げだすのが合理的と判断しかねないほどにあらゆる意味で膨大である。各国の貯蓄は瞬く間に底をつき、財政が火の車になるだけではない。国内の政治力学、国際的資本の流れ、南北の力関係が逆転し、先進諸国から利他的な外交要素がなくなり、グローバルな安全保障が極度に不安定化する危険さえある。「自らの運命を管理し、より持続可能なコースへと道を変える時間的余裕があるうちに、現状を変革するしかない」。決断を下すべきは今で、「世界高齢化サミット」を開催し、この問題のための国際機関を設けることが急務だ。さもなくば、世界は「持続不可能な経済的負担と政治的・社会的苦難の後、悲痛な動乱の時代」へと突入することになりかねない。

Review Essay
江沢民とは何者か

1999年3月号

セス・ファイソン  ニューヨーク・タイムズ上海支局長

毛沢東、鄧小平とは違って、江沢民には自らの奉じる信条への確信が醸しだすカリスマもなければ、他を圧倒するような権限もない。権力の座を射止めて四年がたった時点でも、彼は公の場で自由に発言さえできない。こうした江沢民流の慎重であいまいなリーダーシップは、中国での共産主義の先行き不透明感を反映しているのだろうか。「優柔不断で矛盾に満ち、なんとか状況を乗り切ることばかりを考え」「自分の昇進の鍵を握る目上の人物との関係を築き、それを育むことに長けた」この一見凡庸な人物が、いったいどのようにして遠大な内部抗争に勝利を収めたのか。中央統制経済から市場経済への移行が引きずりだした大きな変化をいなしつつ、なぜ、かくも穏便に世代交代を実現できたのだろうか。

経済制裁は外交に不可欠だ
――外交と経済ロビイスト

1999年3月号

ジェシー・ヘルムズ 米上院外交員会委員長

ワシントンの企業ロビイストは、アメリカ議会は「制裁依存症」にかかっており、「制裁という選択肢を前にすると欲望を押さえきれない」とまで言う。「世界の人口の四〇%強が何らかの形でアメリカの経済制裁の対象にされている」とする彼らの言い分が、いまや一人歩きをはじめている。だが、これは完全な間違いである。こうしたロビイストの意図は、アメリカの道徳性や国益を無視してでも、企業利益の最大化をはかることにある。だが、彼らは現実を知らない。アメリカ市民、そして、企業の大半も、経済利益よりも、大量破壊兵器、人権弾圧、テロリズムという脅威への対応の方が大切だと考えているのだ。「抑圧体制の独裁者に拷問の道具を買う金を与えてまで、新たな雇用など生み出す必要はない」。無責任にも外交政策に介入しようとするロビイストは「恥を知るべき」だろう。

「アメリカの核の傘は必要だが、駐留米軍の規模は削減していくべきだ」。これが細川元首相が『フォーリン・アフェアーズ』に寄せた「米軍の日本駐留は本当に必要か」の提言の骨子だった。同氏は、冷戦後、東アジアの国際関係が好ましい方向へと変化するなかで、米軍のプレゼンスに対する日米の認識の隔たりが生じ、大切な二国間関係を損ねる恐れがあると警鐘をならし、特に、九五年の特別協定(SMA)に基づく日本側の経費負担は、協定が期限切れになる二〇〇〇年以降は継続すべきではないと主張した。これに対して、マイク・モチヅキ氏、マイケル・オハンロン氏は、日米同盟への貢献の度合いはアメリカの方がはるかに高いとして、日本は必要なら憲法を改正してでも、同盟国としての安全保障上の責務を負うべきだと反論した(「細川氏の日米安保論は視野が狭い」)。以下は、細川氏の提言に対する山中あき子衆議院議員による反論。(注1)

コソボ・歴史をめぐる闘いは続く

1999年3月号

ノエル・マルコム  ケンブリッジ大学教授 / アレクサ・ジラス    前ハーバード大学ロシア研究センター研究員

昨年秋、『フォーリン・アフェアーズ』誌上で、元ハーバードの社会学者、アレクサ・ジラスは、コソボをテーマとするノエル・マルコム(ケンブリッジ大学の社会学者)の著作『コソボ概説史』を書評に取り上げた。(注1)ジラスは、筆者のマルコムは「分離独立を求めるコソボのアルバニア人に同情的すぎるし、その立場も反セルビア的で、バルカン問題をめぐる勝手な思いこみがすぎる」と手厳しく批判した。これに対して、マルコムは、「アルバニア人によるコソボの歴史の解釈よりも、セルビア人のコソボ史解釈のほうがより多くの虚構を内包しているのは明らかだ」と、アルバニア人の立場にたって反論する。「コソボ」は民族対立だけでなく、歴史解釈の対立の様相も持ち、それだけに根が深く、熾烈な闘いは学問領域にも及んでいる。以下は、ジラスの書評に対するマルコムの反論と、ジラスによる再反論。

本当に国家間に戦争は起きないのか

1999年2月号

ステフェン・M・ウォルツ  シカゴ大学政治学教授

超大国間の制度・イデオロギー、利害の対立を軸とする冷戦の終結、そしてフランシス・フクヤマに代表される「歴史の終わり」的見方に促されるように、人々は民主国家だけで構成される世界がどのようなものか、つまり、民主主義と平和の相関関係に思いを巡らすようになった。このテーマは学者の研究対象であるだけでなく、現実の政策にも大きな影響を与え得る。ここに取り上げた著作が指摘するように、制度や価値を共有する国家、つまり似たもの同士は戦争しないと考えるのは果たして賢明だろうか。「根本的に異なる国家が存在しなくなれば、民主国家間の摩擦や軋轢が目立つようになるのではないか」。利害の対立がより先鋭化すれば、特に、専制君主や独裁者に対抗して力を合わせる必要がなくなれば、むしろ、民主国間で不愉快な区別や差別がなされるようになると考えてもおかしくはないのではないか?

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