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テーマに関する論文

コソボ危機が変える米欧関係の今後

1999年7月号

ピーター・ロッドマン ニクソン・センター国家安全保障問題ディレクター

コソボ問題を契機に、ヨーロッパ、アメリカの双方とも、お互いの存在なしにはヨーロッパでの重要な目標を実現するのは不可能だということを再認識したようだ。しかし、もしコソボで失敗すれば、ヨーロッパ各国の指導者は、「嫌いなアメリカ」に依存しつつも意に沿わない結果に甘んじたという国内での批判にさらされるだろう。事実、アメリカとの協力体制が、ヨーロッパ各国の極左政治勢力からの非難にさらされたため、各国の指導者は「人道的見地」からのNATOの結束を強く訴えてきた。だが、ミロシェビッチとのあいまいな妥協によってコソボ危機に終止符が打たれるとすれば、人道主義を訴えてきただけにヨーロッパ人の幻滅感は強く、政治的な余波も大きいだろう。その場合、ヨーロッパの国内政治力学とアメリカの覇権に対する反発を欧州の指導者たちは抑えこめるだろうか。コソボが問いかけているのは、たんに人道主義介入の是非と課題だけでなく、NATOを中心とするアメリカとヨーロッパの関係そのものなのだ。

Review Essay
情報化時代に経済はついてゆけるのか

1999年7月号

ジェフリー・E・ガーテン クリントン政権前商務次官

これまでの産業技術革命のすべては、技術的な非連続性と、ブレイクスルーとなった新技術の創造の双方によって導かれてきた。新技術の誕生によって、それまでの富の創造のための手法は当然時代遅れの長物と化す。だとすれば、情報革命のまっただ中にある現在、富を創造するために国は新たに何をすべきなのだろうか。各国の経済・社会システム、そして、世界の制度は、情報化時代という第三の産業革命からうまく利益を引き出せるのだろうか。どうやらレスター・サローは、今回も悲観主義に陥っているようだ。

グローバリズムを読み解く

1999年7月号

バリー・エイケングリーン  カリフォルニア大学バークレー校・政治経済学教授

いまや市場は恐るべきスピードで変化しており、当然、毎日の経済決定を企業のCEO(最高経営責任者)がトップダウンで上から決断しているわけではないし、ましてや政府の経済政策立案者がどうにかできるものでもない。「バーチャル世界経済」を支配しているのは、インターネットというサイバースペースである。とすれば、インターネットを支配するアメリカのグローバルスタンダードへと世界は収斂していくだろうか。それとも……。

国連憲章と新介入主義の行方

1999年7月号

マイケル・J・グレノン  前・米上院外交委員会法律顧問

国家間紛争を前提とする「時代遅れの国連憲章」による厳格な介入規定に縛られ、国内紛争がつくり出す悲劇に見て見ぬふりをするのは、もはや合理的でも賢明でもない。世界の平和と安定に対する切実な脅威は、いまや国家間紛争ではなく、国内紛争から派生しているからである。NATOによるコソボへの空爆は、正義を重視する新介入主義理念の発露ともとらえられる。事実、この新レジームの下では、大量虐殺のように、「介入しないことによる人道的損失があまりに大きい場合」は介入することが適切であると見なされている。だが、国連憲章が完全に死文化したわけではなく、コソボをめぐっては、(介入という)正義の理念と(内政不干渉を唱える)国連憲章が衝突している。だが、新介入主義の支持者たちは、法に挑戦することと「法の支配」に挑戦することとはまったく意味が異なり、(NATOが国連憲章に対して行ったような)不適切な法に対する挑戦は、法レジームをむしろ強化できることを肝に銘じるべきだろう。新システムの課題は、この新レジームならびに、それを基盤とする軍事行動が人々に正当なものと受け止められるかどうかにある。この点からも、正義を貫くことこそ法的な裏付けを得る最善の方法であることを忘れてはならない。正義を実現しさえすれば、正義を反映できるような法システムの確立にも自ずと道が開けてくるからだ。

日本モデルの限界と再生への道筋

1999年7月号

マイケル・ポーター  ハーバード大学教授 竹内弘高  一橋大学大学院国際企業戦略研究科長

一般に考えられているのとは逆に、行政指導、産業政策に代表される日本の政府主導型モデルは、むしろ失敗を呼び込む処方箋のようなものであり、かつて称賛された日本企業の管理手法も危険なまでに不十分な代物にすぎない。成功を収めるために何よりも大切なのは「競争」である。日本政府は競争の強化を規制改革の目標に据えるべきだし、一方の企業も、ライバル企業を模倣するのではなく、相手と競争して生産性を向上させるという姿勢をもつべきだろう。そのためには、資本を効率的に利用して妥当な収益を上げることを求める圧力が必要である。当然、株主にはより大きな影響力が与えられるべきだし、役員の独立性を強化し、企業の決定や財務状況をより透明なものとし、コーポレートガバナンスを強化すべきである。さらに、独創的な考えやリスクを引き受ける姿勢を育んでいくためにも、間違いは罰しても成功には報いない日本のシステムを見直す必要もある。今こそ自分たちのアプローチの限界を深く理解したうえで、「自己再生をはかり、より洗練された競争へ」と自らを向かわせる時である。

ニクソン、フォード外交を振り返る
――現実主義、理想主義、新保守主義の相克

1999年6月号

ヘンリー・A・キッシンジャー  元米国務長官

二十一世紀に長期的視野に立った外交政策を実行するには、「レーガン的な直感的アプローチとニクソン的な地政学的な細心の配慮」の双方が必要である。ニクソン期の外交政策がうまく支持を集められなかったのは、外交上の理念や道徳性を重んじる「ウィルソン主義が大衆に与えていた大きな影響を、われわれが過小評価していたためだった」。しかし、ニクソン政権の政策が間違っていたというリベラル派の批判は憶測違いである。われわれは、ベトナムで被った痛手を克服さえできれば、「地政学的な孤立と低迷する経済が、クレムリンのイデオロギー上の熱意を萎えさせ、ソビエト・システムを圧倒できる」と当時から考えていた。冷戦の勝利は、ひとりレーガン政権の手柄ではなく、ニクソン、フォード政権の地政学的戦略とウィルソン主義のレトリックをレーガンが抜け目なく合体させた結果だった。重要なのは、一九八〇年代の勝利は一九七〇年代の戦略を拒否することによってではなく、レーガンがうまくその位置づけを変えたことによって達成された、ということだ。リベラル、保守、新保守派によるとめどない政治論争をコンセンサスへと導くには、それぞれのグループがつくりだした時代の政治状況と各時代の戦略から知的な教訓を得る必要があるし、とくに新保守主義者が自らの過去を正直にとらえ直す必要があるといえよう。

コソボ紛争は分離独立でしか決着しない 

1999年6月号

クリス・ヘッジ ニューヨーク・タイムズ  前バルカン支局長

一九九五年のデイトン合意は、自治や独立を求めるコソボのアルバニア人にとっては,死亡宣告に等しかった。まずコソボ問題を解決すべきだとそれまで主張していた欧州連合(EU)が、まるで手のひらを返したように新ユーゴを承認したからである。一度火がついた以上、もはやコソボ紛争が短期で解決することはありえない。セルビア人のナショナリズム、そしてユーゴ紛争の犠牲者が本当は自分たちであるとみなす厄介な自己認識は、欧米が攻撃を加えればますます高まっていく。一方、穏健派指導者のルゴバが支持を失った後、アルバニア民衆の支持を集めているコソボ解放軍(KLA)といえば、大規模な義勇兵の予備軍を擁しているだけでなく、アルバニアとの国境線が開放的であることを利用して、兵器の供給や新規の兵士リクルートのラインを確保している。しかも、セルビア人とコソボのアルバニア人の双方とも、武力行使こそ袋小路を打開する手だてであると確信しており、対立の溝が深いことを考えると、交渉による妥結はほぼあり得ない。とすれば、国際コミュニティーが長期的にコソボに平和維持部隊を置いたところで、撤退後に双方が再び銃をとる可能性は高い。「KLA率いるコソボが、交渉によってであれ、暴力によってであれ、セルビアから分離独立する」。これが最も可能性の大きいシナリオなのだ。

Review
キッシンジャーの知られざる素顔

1999年6月号

フィリップ・ゼリコー バージニア大学教授

国益だけを見つめる冷徹な現実主義者として知られるキッシンジャーだが、彼の外交センスは、冷徹な分析能力というよりも、実際には、彼自身もあまり気づいていない二つの資質によって導かれていた。一つは、「膨大な情報を踏まえた上で、そこから実行可能なエッセンスを導き出す類い希な能力」である。彼は、タイミングよく本当の問題の所在をかぎ分け、それに対処するために、官僚や外交官がどのような行動をとるべきかを思い描く抜群のセンスの持ち主だった。そしてもう一つの才能は、「他人の能力を直感的に見抜く力」、そして、でき得る限り相手の立場に「共感」を示す柔軟性である。世間のキッシンジャー評、あるいは、彼の自画像にもない、この二つの資質が彼を当代一流の外交交渉者に押し上げたのである。

途上国の苦しみはわれわれの苦しみ

1999年6月号

ジェームス・グスタフ・スペス  国連開発プログラム総裁

この相互依存世界にあっては、国際援助・協力は、公共政策の一部でなければならない。われわれの繁栄は環境から経済に至るまで、すでにグローバル化している様々な要因によって規定されだしている。当然、途上国の債務問題への寛大な対策を講じるとともに、旧西側諸国は途上諸国への投資を増やすべきである。世界の社会階層間の境界線が次第に形成されつつあることを無視し続ければ、環境の悪化、人的災害、経済成長の悪化という形で、膨大なしっぺ返しを食うことになろう。

金融政策の民主的管理を提唱する

1999年6月号

シェリ・バーマン プリンストン大学助教授   キャサリン・R・マクナマラ プリンストン大学助教授

政治的に高度な独立性を備えた中央銀行に、金融政策の決定権を委ねるというのが昨今の流行である。金融政策を成功へと導くには秩序立った長期的視野が必要なため、短期的で政治的になりがちな政策決定プロセスに委ねることはできない、というのがその理屈だ。だが、はたして高度な独立性を持つ中央銀行による決定が、経済を豊かにしていると言えるのか。それは、民主的統治というわれわれのシステムの基本からの逸脱を認められるほどに大切なのか。その答えはノーと言って差し支えないだろう。「ドイツ連邦銀行のインフレ・ファイターとしての役目は、この組織に法による独立性が認められていることによってではなく、むしろインフレ対策を経済政策の主要な目的とすることを市民が広く受け入れているという事実に根ざしているのだ」。中央銀行、とくに欧州中央銀行の独立性を支持する人々は、民主主義の本質はそれがつくりだす結末ではなく、その結末に至るプロセス、それが正統性を備えていくプロセスにあることを、再認識すべきではないか。

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