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2009年11月号(3) 吉田茂のフォーリン・アフェアーズ論文(1951年)を掲載
2009-11-04
2009.11.4公開
まだ日本が占領下にあった1951年に吉田茂がフォーリン・アフェアーズ誌に発表した「来るべき対日講和条約について」は、戦後日本を代表する首相の一人である吉田が、世界の外交コミュニティに発した早期対日講和要請の宣言文、軽武装・経済重視のいわゆる吉田ドクトリンの萌芽とも言われる。また、この論文については、日中経済の交流の必要性を示唆している部分がアメリカの冷戦外交の専門家に注目されたことも指摘しておくべきだろう。(注1)
冷戦という過酷な国際情勢とアメリカの反共路線を十分に知りつつ、「赤であれ、白であれ、中国は日本の隣国である。長期的に見れば地理的、経済的必要性がイデオロギー上の相違や人為的な貿易障壁を克服するだろう」と指摘した吉田の豪胆ぶりは注目に値する。
<冷戦のなかの日本>
ますます先鋭化しだした米ソ対立を前に、アメリカの対日占領政策は、1947年あたりからその目的を日本の非軍事化から反共の砦へと変化させることへとシフトしていく。1949年に中国が共産化し、1950年初頭に中ソ同盟が結ばれる。1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、アチソン米国務長官が同年1月に表明した「アリューシャン列島からフィリピンにいたるアメリカの不退転防衛ライン」における日本の重要性はますます高まっていた。 対日講和条約の締結もこうした環境下で急速に具体化していくが、反共の砦と一口にいっても、日本をどう立て直すかはアメリカにとっても大きなジレンマだった。
すでに水面下では日本再武装論も聞かれた。だが、日本の不安定な政治経済情勢、近隣諸国の警戒、何よりもそれまで日本の非武装化が進められ、すでに平和憲法も成立していた以上、冷戦の進展によるアメリカの戦略転換で、すでに作り出されている流れをすべて覆すのは難しかった。
吉田は「現在の日本と第一次世界大戦後のドイツとは全く違う」と強調し、「戦争によって日本の海軍は壊滅し、軍需生産工業の大半も破壊された。残されていた軍事的制度のすべても戦後に解体され、排除された」と日本再軍備はあり得ないと示唆している。
ただし、日本の再軍備を求めていたジョン・フォスター・ダレスの意向を汲んだのか、それとも、彼自身、再軍備という将来における選択肢を想定していたのか、将来に含みを持たせた表現もしている。
「万が一日本が再軍備を望んだとしても、近隣諸国を攻撃する軍事大国になることは考えられないし、ましてや赤道を越えた遠隔地での戦争を行えるような国にはなり得ない。日本が脅威となることはあり得ない」。
<日本の輸出市場はどこか>
アジアでは中国が共産化し、朝鮮戦争もすでに勃発していた。ヨーロッパでもNATO(北大西洋条約機構)が立ち上げられ、当初は非工業化が目的とされていた占領国のドイツでも、すでに経済復興と再軍備に向けたアメリカの路線転換が行われ、冷戦は「世界化」しつつあった。
こうしなか、日本の共産化を阻み、反共陣営の砦とするには、治安と安全保障を確立し、日本経済を回復させることを東京もワシントンも急務と考えていた。
治安については警察予備隊が準備され、安全保障については(サンフランシスコで調印される)安保条約に委ねることが想定されていたが、産業基盤の多くが老朽化するか、破壊されていた日本経済の前途は必ずしも有望ではなかった。
だが、ジョージ・ケナンを含むアメリカの戦略家たちは、ソビエトとの冷戦を経済生産力という領域での戦いとしてもとらえ、日本を、「決してソビエトの影響下に入れてはならない世界有数の経済センター」の一つにカウントしていた。この点を理解していた吉田はこれを対日講和に関連づけ、「日本が東アジアにおける真の産業大国となり、その発展と繁栄に大きく貢献するには講和条約締結が必要である」とうまく訴えている。
朝鮮戦争による特需で日本経済は息を吹き返したとはいえ、ジョン・フォスター・ダレスだけでなく、当時のアメリカの指導者の多くは、「日本にはアメリカの消費者が手を伸ばすようなものは作れない」と考えていた。(注2)しかも、今も昔もその人口の多さゆえに、市場としては常に大きな夢をかき立てる中国はすでに共産化している。市場がなければ、日本の「加工貿易」の販路は見いだせない。
そこで、ワシントンが目を付けたのが、日本の輸出先としてしての東南アジア市場だった。
折しも、当時は東南アジアの共産化がドミノ倒しのように進行するのではないかと危惧されていた。当時、仏領インドネシアは第一次インドシナ戦争のさなかにあり、すでに1950年1月にはソビエトと中国は、北ベトナムの国家承認と軍事援助に踏み切り、アメリカも対抗してフランスと南ベトナムへの支援を決めていた。
これがアメリカにとっては、70年代まで続くベトナム戦争への第一歩だった。ダレスが、当時のラジオ演説でアメリカが東南アジアに関与すべき理由の一つとして「日本製品のための輸出市場確保」を挙げていたことはいまやほとんど忘れ去られている。(注3)
<その後・・・>
だが、日本の主な輸出先となったのは、東南アジアではなく、アメリカの市場だった。ダレスの読みははずれ、すでに1950年代に日本経済は繊維製品の対米輸出自主規制さえ行っている。
日本経済の奇跡とよばれた経済復興を遂げた日本にとって、とくに1970~80年代はアメリカとの激しい貿易摩擦の時代になり、冷戦が終わりに近づくと「冷戦の真の勝者は日本ではないか」という声さえアメリカでは聞かれるようになった。
当時の日本は、国内的には日米安保条約に反対する社会党と安保の維持を求める自民党の対立構図からなる55年体制の時代にあった。
鄧小平が1970年代末以降、経済改革路線を導入すると、かつて吉田が示唆したように、日本はついに中国との経済交流を果たす。そして、1980年代以降の日本は消費財と資本財、そしてODAを東南アジアに注ぎ込むようになり、この地域において軍事力の代わりに経済力で確固たる影響力を築くようになった。
だが、「失われた10年」を経て、経済力や対外援助をバックとする日本の影響力は低下し、いまは中国が大きな台頭を遂げている。そして、第二次世界大戦後、一貫して日本、4小龍、中国、東南アジアからの輸出を一手に引き受けてきたアメリカは金融メルトダウンに直面し、これが現在のグローバル・インバランスの是正論だけでなく、準備通貨としてドルの衰退論に拍車をかけている。(注4)
経済台頭の一方で社会不安という時限爆弾を抱える中国、金融・経済危機に苦しみ、未来ビジョンを描こうと試みるアメリカの間に位置する日本でも、すでに55年体制も自民党を中心とする一連の連立政権も崩壊し、民主党が政権を担っている。
歴史は繰り返さないし、当時からみればパワーバランスも大きく変化しているが、かつて同様に大きな歴史的分水嶺にいまや直面していることはおそらく間違いない。吉田茂なら、この新たな流動期にどのような未来ビジョン、いかなる現実主義路線を描いただろうか。●
注1、 John Lewis Gaddis, Strategies of the Containment Oxford University Press.
注2、 「誰が日本の方向性を決めているのか」ニコラス・クリストフ、「超えられなかった過去」ウォルター・ラフィーバー( フォーリン・アフェアーズ リポート10月号)
注3、 Securing the Great Crescent: Occupied Japan and the Origins of Containment in Southeast Asia,” Journal of .American History 69
注4、 「輸出主導型経済モデルの終わり」、ブライン・P・クライン、ケネス・ニール・クキエル(フォーリン・アフェアーズ 8月号)、「脅かされる基軸準備通貨、ドルのジレンマ」バリーエイケングリーン (フォーリン・アフェアーズ9月号)
By Koki Takeshita