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2007年2月号 世界が共有するグローバルな課題に打つ手はあるのか
2007-02-10
猛スピードで逃げる犯人の車を追うパトカーが州境にさしかかる。犯人は州境を越えて逃げ去るが、警察官は車を止め、犯人の車が州境の向こうへ逃げ去るのを悔しがりながら見送るしかない。アメリカ映画にはこんなシーンがよく出てくる。もちろん、警察官が追跡を断念するのは、法執行当局も、法管轄の境界線を越えては活動できないからだが、グローバル化が進展した1990年代には、この古くからの問題が新たな問題として注目されるようになった。
組織犯罪による国際的な麻薬取引、マネーロンダリング、テロ、環境汚染、感染症などの問題が、まるで、州境を越えて走り去る犯人の車のように、国境線を超えて大きな広がりを見せるようになったからだ。各国の当局は一国だけでは解決できないこれらの問題を「グローバル・イッシュー」として位置づけ、横断的な規制ネットワークを築くことで対応を試みるようになった。だが、グローバル・イッシューのリストは膨れあがる一方で、対応はスムーズにいっていない。
アフガニスタン研究の第一人者として知られるバーネット・ルービンは、腐敗、貧困、暴力のなかで身動きがとれなくなったアフガンではタリバーンが再び台頭しつつあり、パキスタンとの国境周辺の部族地域が、麻薬とイスラム過激派のテロという「世界が共有する問題」の温床と化し、聖域として利用されていると指摘する。アフガンとパキスタンの国境地帯、とくに部族地域として知られるパキスタン側の国境地帯は国家主権が及んでいない地域で、皮肉にも、グローバル化とは全く無縁のこの地帯がテロと麻薬という深刻なグローバル・イッシューの震源地となっている。ルービンは、アフガンが内外で直面する問題に対処し、パキスタンが国境周辺の部族地域を改革していくのを国際社会が支援しない限り、9・11以降のテロとの戦いはスタート地点に引き戻されることになると警鐘を鳴らしている(「アフガニスタンを救うには」)。
一方、イスラム過激派との戦いは、文明、進歩、近代化を受け入れる勢力と、それを拒絶する勢力の戦いであり、力の領域だけでなく、価値をめぐる闘いで勝利を収める必要があると指摘するトニー・ブレアは、市民がこうしたテロとの戦いの本質を理解できずにいるといらだちを隠さない。「『アメリカを中心とする西洋がアフガニスタンやイラクを侵略したことが今日のテロの原因だ』と主張する人々が(西洋世界に)数多くいることに困惑している」と述べるブレアは、イラクで問題が起きるたびに、「欧米政府の責任を問う声があがり、紛争を起こしている勢力の悪辣さは見過ごされる。イラク侵攻が大きな誤りであったと考えるがゆえに、人々は、いまや現実さえも受け入れることを嫌がっているようだ」とみる。
しかし一方でブレアは、世界の相互依存が高まっており、「世界が共有し、うまく機能する価値体系の必要性」も高まり、この流れのなかで、「外交を導く要因としての価値観と国益」が重なり合うようになり、理想主義と現実政治が重なり合ってきていると今後に期待を託している(「テロとの戦いの本当の意味は何か」)。
しかし、世界が共有する問題であることが先進国で認識され、対応が進んだものの、その結果、新たな課題を抱え込んでいる問題もある。ローリー・ギャレットによれば、いまや、道義的配慮、あるいは感染症の世界的流行を恐れる先進国の政府や民間の援助や寄付によって、かつては絶望的に不足していた途上国の公衆衛生対策用の資金プールはかつてない規模に達している。だが、援助をする側の政府や民間が、自分たちの関心の高いHIVなどの疾病への対策をとることを援助の条件としているために、出産時の妊婦死亡、小児性呼吸器疾患、腸内感染という途上国における死亡の3大疾患への対応が手薄となり、むしろ、途上国の全般的な公衆衛生状況は悪化していると彼女は告発する(「グローバルな公衆衛生の課題(上)」)。
グローバルな課題にはグローバルな対応が必要だとよく言われるが、国連には強制力がなく、世界政府も、世界憲法もない現状では、国家主権の枠と市民の問題認識の低さに阻まれて、世界が共有する問題へうまく政治的に対応できないことも多い。ブレアが言うように、普遍的な価値観と国益が重なり合う時代がやってくるかどうかは、政治指導者がすでにわれわれが「あそことここの問題を区別できない時代」に足を踏み入れていることを市民に説明できるかどうか、グローバルな課題への対応を統御するグローバルなメカニズムを世界が設計できるかどうかに左右される。●
(C) Foreign Affairs, Japan