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2006年5月号 サダムの妄想と不思議の国のアリス  

2006-05-10

「サダム・フセインの妄想――旧イラク軍高官たちが証言する」を読むと、白ウサギを追いかけて、パラドックスや不条理に付きまとわれる不思議の国に入りこんだアリスになったかのような錯覚に陥る。イラク戦争中にイラクで何が起きていたかを分析したこの論文を読んで、かつての日本での「大本営発表」や軍の精神論を思い起こす人も、ヒトラーに仕えたナチス高官の異常心理状態に思いを馳せる人も、あるいは裸の王様のエピソードを思い出す人もいるかもしれない。
「2003年3月になっても、サダムは、戦争は自分の思う通りに進むと明らかに信じ込んでいた。『イラクが勝利できないにしても、敗北はない』。……戦闘が開始された後10日間にわたってイラクは、ロシア、フランス、中国に対して、停戦合意構想が出ても支持しないようにと要請している。……3月30日になっても、サダムは自分の戦略はうまく機能しており、連合軍は攻撃を停止すると考えていた」
この論文は、米統合軍司令部・作戦分析統合センター(JCOA)がまとめた『イラク・パースペクティブ・プロジェクト――サダム政権高官はイラク自由作戦をどうみていたか』(日本語版2006年4月号)というタイトルの200ページを超えるリポートを基に、JCOAリポートの筆者であるケビン・ウッド、ジェームズ・レーシー、ウィリアムソン・マレーがフォーリン・アフェアーズ誌にその主要なポイントを抜粋し、まとめ直したものだ。JCOAの公式リポートの執筆には、この3人の他にもマイケル・ピース、マーク・スタウトが参加している。
ケビン・ウッドをプロジェクトリーダーとするイラク・パースペクティブ・プロジェクトの分析チームは、バックグラウンドリサーチとして、イラクに関する公開されている情報を入念に調べ上げたうえで、イラクへ向かい、現地でイラク政府・軍高官への聞き取りを行うとともに、押収したイラク政府文書を精査し、2006年3月24日にこの2年がかりのプロジェクトを分析報告として発表した。
一体、イラクで何が起きていたのか。
サダムは国内での軍事クーデターや武装蜂起を恐れるあまり、パラノイア思考に陥り、自分しか信じられなくなり、気に入らない報告やアドバイスをした者は粛清し、側近と軍の高官を身内か同郷出身者で固めていた。その結果、皮肉にも、国防を担うべきイラク軍を実質的に機能不全へと陥れ、サダム自身、イラク戦争の戦況を含め、現実が何であるかを把握できなくなっていた。
事実、「サダムの首席秘書官だったアベッド・ハミド・マフムード中将は、ナジ・サブリ外相にフランスとロシア政府に対して次のように伝えるように命じている。『イラク軍は勝利を収めつつあり、米軍が敗北の泥沼のなかにある』以上、イラクが停戦合意を受け入れるとすれば、『米軍が無条件撤退』に応じた場合だけである」。だが、このとき米軍の戦車は「バグダッドの南100マイルのところまで迫り、首都に向けた最後の進撃のために燃料と武器を補給していた」。
歴史家、政策決定者は、いかなる国の政治指導者も現状に即して「合理的にものを考え、愚行を回避しようとする」という前提で政策路線を検討しがちだが、かつての多くの独裁国家同様に、サダム・フセインのイラクでも不合理と不条理、そしてパラドックスと愚行がまかり通っていた。
クーデターを恐れるあまり、国防を担うべき軍を無力化させ、国内蜂起を恐れるあまり、ナチスまがいの民兵組織を立ち上げて反政府集団を抑え込み、国益を唱える者の口を封じたサダム・フセインが為政者として市民への義務を果たしていたとは到底言えない。
市民は悲惨な状況に置かれているが、そこに、不満を表明する民主的な制度も存在しないし、平和的な改革も、軍事的クーデターも起こりえないほどに社会は恐怖に支配されている。それでも、国際社会は、この国を安定と平和に対する脅威であるとみなす合意を形成できない。為政者として市民に責務を果たさない指導者が率いる国に対して、国際社会に何ができるのか。予防戦争の誹りを逃れ得ないイラク戦争を反面教師に考えるべき本当のポイントはここにある。北朝鮮も、おそらくはイランも、そして一部のアフリカの国々もサダム・フセインのイラクのような状況に陥りつつあるのかもしれないのだから。●

(C) Foreign Affairs, Japan

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