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テーマに関する論文

多国間協調と単独主義の間

2000年2月号

ロバート・W・タッカー/ジョンズ・ホプキンス大学名誉教授

「グローバリゼーションは実在するが秩序を保証できないし、一方で多極世界は秩序を保証できるかもしれないが、実在しない」。したがって、アメリカがもつ支配的な力が世界秩序への特別な責任を作り出すのは避けられない。ここでの問題は、アメリカは単独で行動すべきか、あるいは他国とともに行動すべきか、という古くからのテーマにある。「国際コミュニティーによるコンセンサスなどいまなお幻想」なのだから、現実には原則や利益を共有する「より小さなコミュニティーによる支持」をアメリカは模索し、こうした諸国ととも多国間協調がともなう制約や妥協という重荷を担っていくべきだろう。アメリカが力の誘惑に抵抗できる唯一の国家だと信じこむのは問題がある。肝に銘ずべきは、「力に乱用は付き物だが、一方で力は責任を生む」という真理のバランスである。

デイトン後のボスニアの現実

2000年1月号

アイヴォ・ダールダー ブルッキングス研究所上席研究員

デイトン後のボス二アがなんとか生きながらえているのは、ひとえに国際援助のおかげである。現地勢力による自力再生の見込みはまったくたっていないし、援助もいずれ打ち切られる運命にある。しかも、世界の関心はすでにボスニアではなく、コソボの再建へと向かっている。国際社会は、敵対行為の抑止だけでなく、デイトン合意のもう一つの目的である、安定した経済基盤を備え、民主的で多民族から成るのボスニアの実現という野心的な課題を、もはや放棄すべきなのだろうか。それとも、その実現にむけて関与を再度強化させるべきなのだろうか。

インドネシア大統領の政治的ギャンブル  

2000年1月号

アダム・シュワルツ   前・外交問題評議会フェロー

メガワティの副大統領起用から異なる宗教・民族・地域的背景を持つ多彩な顔ぶれの組閣に至るまで、大統領選挙以後にワヒド大統領がつくりだした政治的潮流は、ギャンブル以外の何ものでもない。新大統領はこうした内閣をつうじて、分離主義が突きつけるこの国の統合に対する脅威を緩和させる賭けに打って出たのだ。実際、分離主義に端を発する散発的な軍事紛争が続き、現政府が軍事政権化するとすれば、それはアチェの独立以上に危険な事態となる。民族・文化・言語の多様性こそがインドネシアの強みであるという信条を持つワヒドは、政治・経済的分権化を進めて、連邦制の枠組みをもって分離主義に対処しようと試みている。また、イスラム教徒でありながらイスラエルとの関係強化を公言し、一方で欧米よりもアジア重視の外交路線をとる大統領の真意は、国内政治上のリスク、経済利益、そしてインドネシアの国際的地位の向上という意図に導かれている。妥協の人であり、優れたバランス感覚の持ち主である新大統領の戦略を検証し、政治的ギャンブルの行く末を探る(本文は一九九九年十一月十一日にワシントンで開かれた外交問題評議会のミーティング・プログラムでのスピーチ。「フォーリン・アフェアーズ」誌には掲載されていない)。

バルカン経済にニューディール政策を

2000年1月号

ベン・ステイル 外交問題評議会シニア・フェロー スーザン・L・ウッドワード ロンドン大学国防研究センター上席研究員

南東ヨーロッパに長期的な安定と非民族主義的な政策が根づくかどうかは、この地域の「経済」がどうなるかによる。欧米が、バルカン危機の本質を修正可能な政策上の破綻としてではなく、この地域に特有な民族主義による紛争、民族間の敵意という構図でとらえ続ける限り、現地の改革が前進することはあり得ない。必要なのは、「南東ヨーロッパの欧州化」に向けた欧州連合(EU)の柔軟で明確なコミットメントだ。バルカンの欧州化とは、すでにEU内に根づいている、国境を超えた通貨・貿易・投資のアレンジメントをヨーロッパの南東部へと広げることで実現する。これによって育まれる南東ヨーロッパの内的統合とヨーロッパとの一体化への希望こそが、腐敗に彩られ、投資も呼び込めず、とかく民族主義に振り回されがちなバルカン地域での改革努力を喚起する唯一の処方箋である。

NATOのコソボ作戦を総括する

1999年12月号

ハビエル・ソラナ   前NATO事務総長

北大西洋条約機構(NATO)は突然、コソボ空爆を開始したわけではない。空爆は、すべての外交的手段がうまく機能しないのを見届けたうえで実施された。一方、この作戦を実施すれば、民間人が犠牲になり、ロシアとの関係が悪化し、コソボへの長期的なコミットメントが必要になるかもしれないという「リスク」の存在も、NATOは当初から理解していた。だが、行動を起こさなければ、大西洋コミュニティーがセルビアによる民族浄化作戦を事実上容認することになるため、リスクを引き受けても行動を起こす価値があると判断した。そして、作戦は「成功」した。難民は故郷へと再入植し、国連の参加によってコソボの復興も進んでいる。「無関心を決め込むことの最終的コストのほうが、エンゲージメント(穏やかな関与)が必要とするコストよりも、はるかに高い」という教訓を、われわれは再び学んだのである。

外交問題評議会タスクフォース・レポート
国際金融構造の将来

1999年12月号

ピーター・ピーターソン、カーラ・ヒルズ、モーリス・ゴールドシュタイン他

一九九七年にタイで始まった金融混乱によって、国際コミュニティーは危機の予防と解決に関するこれまでの制度、構造、そして政策の見直しを余儀なくされている。一九九八年九月、クリントン米大統領は、卓越した民間組織が国際金融構造改革の必要性に関する分析をまとめるべきだと提言した。これを踏まえて、外交問題評議会は、ピーター・ピーターソンとカーラ・ヒルズを共同議長とする「国際金融構造の将来」を考えるタスクフォースを組織した(ピーター・ピーターソンは外交問題評議会理事長で、ブラックストーン・グループ会長を兼務。ニクソン政権で商務長官を務めた。カーラ・ヒルズは、ヒルズ・アンド・カンパニーの最高経営責任者で、ブッシュ政権の通商代表部代表を務めた)。プロジェクト・ディレクターを務め、このリポートを執筆したのは、国際通貨基金(IMF)の前・調査副ディレクターで、現在は国際経済研究所上席研究員のモーリス・ゴールドシュタインである。タスクフォースの参加メンバーについては、文末のメンバーリストを参照されたい。以下の論文は、評議会のタスクフォース・リポートの統括である。リポートの全文と議論の少数意見は評議会のウェブ(www.cfr.org)で公開している。

可哀想な国連

1999年12月号

マイケル・ハーシュ/ニューズウィーク誌記者

このままでいけば、クリントン政権は国連を無視し、国連システムを崩壊させた米政権として記憶されることになりかねない。コソボ空爆の際には北大西洋条約機構(NATO)を頼みに安全保障理事会を迂回し、その後には人道的単独介入をめぐる「クリントン・ドクトリン」の構築を試み、さらに、東ティモール問題を契機に、アジア太平洋経済協力会議(APEC)を地域的な安全保障フォーラムにする可能性も示唆されている。しかし、組織されたフォーラムであれ、富める諸国の一時的連帯関係であれ、国連という枠組みを離れてうまく問題解決にあたることはできず、この点、アメリカとて例外ではない。「唯一の超大国もひとり頂点にいるわけではない」。グローバルな問題への取り組みには国連システムが不可欠であり、今や国連とアメリカの関係修復に向けたワシントンと国連本部間の「シャトル外交」が急務だろう。

中央アジアを揺るがすタリバーンの正体

1999年12月号

アハメド・ラシッド/「ファーイースタン・エコノミックレヴュー」誌記者

アフガニスタンの平和の実現を助けずして、中央アジアの広大な石油・天然ガス資源を安全に開発できると考えるのは、非現実的である。タリバーンが牛耳るアフガニスタンは、今やパキスタン、イラン、中央アジア諸国、イスラム教徒の多い中国の新疆ウイグル自治区の反政府イスラム勢力が安心して逃げ込める「聖域」となっているだけでなく、軍事訓練の拠点と化している。実際、タリバーンと協力して現在アフガニスタンで戦っている数千のイスラム原理主義者たちは、いつか祖国の政権を倒し、世界各地でタリバーン流イスラム革命を起こすつもりなのだ。しかも、アフガニスタンは今や世界最大のアヘン生産国で、この犯罪経済に周辺諸国が巻き込まれつつある。タリバーンが支配するアフガニスタンから、暴力、麻薬、カオス、テロリズムが周辺地域へと拡散するのを放置すれば、いずれわれわれは途方もないコストを支払わされることになる。

ヨーロッパの壮大なる駆け引き

1999年11月号

パトリック ・マッカーシー  ジョンズ・ホプキンズ大学教授

国が主権を超国家機関へ委譲する動機は一体何だろうか、そして、ヨーロッパ十一カ国はなぜ自国の通貨を捨てユーロ導入を選択したのか。「ヨーロッパ」の今後が先行き不透明であるにせよ、確固たる足取りで経済統合へとすすんでいるのは間違いない。ヨーロッパを統合へと向かわせたのは、国益を重視する冷徹な経済ロジックだったのか、それとも、理念とリーダーシップが、政治、経済、文化、歴史と連動しながら地殻変動をおこしたのだろうか。

国を盗んだロシアのエリート

1999年11月号

アンダース・アスルンド  カーネギー国際平和財団上席研究員

ソビエト崩壊期にすでに巨万の富を手にしていた旧ソビエトの特権階級は、国の崩壊こそ気にかけなかったが、その後、ロシアという新生国家そのものを買収してしまった。規制の悪用、特権的輸出、補助金と、新興成り金たちが国から大金をせしめ、個人の懐に収める機会はいくらでもあった。彼らは数多くの政治家や役人に賄賂をばらまいては富を増やしていくとともに、「自分たちの利益独占状態に終止符が打たれるのを恐れて」、経済成長を促し国民の生活向上につながるはずだったリベラルな経済改革路線を妨害する試みにでた。こうした窃盗行為と無分別な外貨の流入の結果が、一九九八年の金融危機だった。ロシアの問題を市場が自由化されすぎたことに求めるのは、お門違いである。問題は、自由化が進展せず、大きな政府がつくりだす過剰な規制がいまだに存在し、それが汚職の温床となっていることなのだ。経済・金融危機はこうした現実をどのように変えたのだろうか。そうした変化は、ロシア経済と社会を健全化へと導くのだろうか。

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