1994年以降に発表された邦訳論文を検索できます。

に関する論文

大蔵省:目に見えぬリヴァイアサン

1995年4月号

イーモン・フィングルトン
金融ジャーナリスト

日本では政治家は「君臨すれども統治せず」、統治するのはあくまで官僚、それも大蔵官僚たちである。大蔵省(財務省)は、予算編成権、規制の恣意的な執行、民間への天下り、政策の財政面での審査などを通じて、西欧世界では考えられぬほどの巨大な権限を、それも目立たぬように行使している。事実日本の財務省は、米国においては、「連邦準備制度理事会、財務省、連邦預金保険公社、会計検査院、証券取引委員会がそれぞれに分散して担当している領域の全てを一手に自らの管轄領域とし」、しかも、その翼下にある国税庁を通じて日本の税システムも管理する日本の目に見えぬ「リヴァイアサン」だ。税システム、予算、国防のすべてを管理する大蔵省の実体を把握せずして、日本経済の実体を見きわめるのは不可能である。

原爆投下は何を問いかける?

1995年2月号

バートン・J・バーンスタイン
スタンフォード大学歴史学教授

原爆が戦争終結の時期を早めたという議論の根拠はとぼしく、「たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない」。加えて、米国の指導者のなかで、一九四五年の春から夏の段階において、「五十万の米国人(将兵)の命を救うために」原爆を使用すべきだと考えていた者など一人としていなかった。広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、二十億ドルもの資金を投入したプロジェクトのもつ政治的・機構的勢い、そして、第二次大戦の熾烈な戦闘を通じて、(市民を戦闘行為に巻き込まないという)旧来の道徳観が崩れてしまっていたからにほかならない。この道徳観の衰退こそ、後における核兵器による恐怖の時代の背景を提供したのである。ドイツや日本の軍国主義者たちだけでなく、なぜ、米国を含む他の諸国の道徳観までもがかくも荒廃していたのか、この点にこそわれわれが歴史の教訓として学ぶべきテーマが存在する。

まぼろしのアジア経済

1995年1月号

ポール・クルーグマン
スタンフォード大学経済学教授

アジアの経済成長は奇跡ではない。持続的な経済成長には、「投入の増大」と「生産効率の改善」の双方が必要だが、アジア諸国の経済成長のほとんどは、労働力の拡大、教育レベルの改善、物的資本への投資など、持続的には行い得ない「投入」の増大によって説明できてしまうからである。実際、日本を例外とすれば、そこには生産効率の改善の形跡などほとんど見られない。いずれ陰りが見えてくるのがわかっている投入増大型の経済成長を、将来にそのまま当てはめ、世界経済の将来を論じても何の意味もない。われわれは、誤った前提を基にする過大な経済予測やそれに伴う思いこみに振り回されることなく、現実の数字、つまり「数字という暴君」を素直に受け入れるべきである。

民主主義の道徳的危機

1994年10月号

チャールズ・メイヤー ハーバード大学教授

冷戦における勝利も、いまや排外主義の台頭、伝統的政党への不信、政治に対する冷めた態度などによって急速に色あせたものとなりつつある。実際、われわれは「政治からの逃避、論争に対する嫌気、主張をめぐる信念のなさ、論争の結果に対する不信、論争に加わる人々への蔑視」といった態度が幅をきかすような民主主義の「道徳的危機」のただなかにある。
 変化や進歩を許容できるような改革主義が否定されてしまっているため、市民たちは、民族、イデオロギー上の多元主義状況を否定的にとらえだしている。現状が続けば、サミュエル・ハンチントンが指摘するような「文明の衝突」というゆゆしき事態に直面することになりかねない。
 この憂鬱な予測を覆すには、われわれは、「民族問題だけでなく、市民社会の不完全な状態の(改善に向けた)コミットメントを示し、保護主義への傾斜を回避し、民族性や文化的なつながりを超えた共通の大義を推進していく必要がある」。

文化は宿命である

1994年5月号

リー・クアンユー 元シンガポール首相(論文発表当時)
ファリード・ザカリア 『フォーリン・アフェアーズ』副編集長(論文発表当時)

東洋の社会においては、個人が家族の延長線上に存在すると考えられている点にある。個人は家族から分離した存在ではないし、一方では、家族も親類の一部、友人の環、より大きな社会の一部として存在する。

Page Top