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に関する論文

アジアの将来を左右する「日本の歴史認識」

2000年1月号

ニコラス・D・クリストフ  ニューヨーク・タイムズ東京支局長

アジアの歴史的分断線は深く、とくに中国や韓国の人々の反日感情は強い。たしかに、アジア諸国が現在の日本ではなく、かつての日本を基準に判断を下している部分はあるが、かたくなに謝罪を拒む日本の姿勢にも大きな問題がある。アジア経済危機を経て、この地域がまさに日本のリーダーシップを必要としているときに、この分断線が感情面にとどまらず、政治、安全保障領域へと飛び火する恐れさえある。悪循環を断ち切るために、日本がより誠実に謝罪を表明すれば、それだけで、アジアにおける十万の米兵力のプレゼンス以上の地域安全保障への貢献となるはずだ。ここにアメリカの果たすべき役割がある。アジアは、海兵隊よりも、むしろ(アジア諸国間の和解に向けた)アメリカによる忍耐強く誠実なカウンセリングを必要としているのだ。アジアの安定に不可欠な地域的信頼関係は、日本が過去と正面から向き合うようになり、韓国と中国が未来志向になって初めて実現する。

なぜ旧ユーゴ紛争の火種は消えないか

1998年12月号

ウォーレン・バス 「フォーリン・アフェアーズ」副編集長

事実上のボスニア分割を、名ばかりの単一国家という体裁で取り繕っただけのデイトン合意は、それまでになされた侵略行為、人権弾圧、民族浄化など反民主的、非人間的行為を不問に付すことで成立した「嫌々ながらの妥協」である。合意をとりまとめるためには、リベラルな価値とは正反対のイデオロギーの持ち主であるミロシェビッチやツジマンとの交渉が必要だったため、結果的に彼らの立場を強化してしまった。現在のコソボの流血の惨事も、ミロシェビッチやツジマンの立場を強めてしまったデイトン合意の帰結の一つにすぎない。過去の蛮行に免罪符を与えたかのようなデイトン合意が、ますますセルビア人を民族的排外主義に駆り立ててしまったからだ。ボスニアを含む旧ユーゴの地に、多民族民主主義とコスモポリタンな社会を復活させ、アメリカのリベラル外交の面目を保つには、「戦争裁判の実施、難民の故郷への復帰、(民族的でない)市民的ナショナリズムの価値の再確認」など、デイトン合意に盛り込まれたリベラルな要素を実現していくしかない。

日本外交も大不況

1998年12月号

船橋洋一  朝日新聞編集委員

日本の金融不安や政治・経済面での停滞は、社会に悲観主義を蔓延させ、非核国で経済力に富み、民主的なシビリアン・パワーであるというアイデンティティーさえも危機にさらしている。経済力が外交的影響力につながるとする日本の前提は、日本経済の衰退によって力を失いつつあり、いずれ国益をより現実的に定義しなければならなくなるだろう。アジア経済のメルトダウン、インド・パキスタンの核実験、中国の台頭、日米同盟の不確実性と、難題は山積しているが、日米中のバランスをいかにとるか、これが現実主義外交の最大の課題となろう。日本は米中接近に対して被害者意識を抱くのではなく、経済、安全保障の両面で、とりわけマクロ経済政策、貿易、環境問題、核軍縮措置、地域政策を含む多様な問題に関して、より闊達な日米中の三国間対話を確立させていくべきである。将来は中国の参加も視野に入れた日米同盟のビジョンを描くことも必要だろう。日本の将来を過度に悲観視すべきでないが、日本のカムバックには、新しいアイデアと人的資源が必要である。そして、それを提供するのは官僚ではなく、姿を現しつつある市民社会であろう。

歩き続けるドイツ――ボンからベルリンへ

1998年12月号

クリストフ・ベルトラム  元「ツァイト」編集長

コールからシュレーダーへ。社会民主党、左派政党時代の幕開けが、対仏関係、国内政策、欧州統合にどのような影響を与えるのかは予断を許さない。一方、シュレーダー・ドイツの行く手には「ボンからベルリンへ」の首都移転という一大作業も待ち受けている。ナチス・ドイツが瓦礫とともに崩壊し、西側がスターリンと対決の瀬戸際までいったこの町への首都移転は何を意味するのか。海外の人々の一部は、「よりドイツらしいドイツ」は対外的なスタンスをどこに定めるのか、と懸念している。しかし、新生ベルリンがあくまでボンの遺産のうえに成り立つことを忘れてはならない。ベルリンが拠って立つのは、ボンがこの五十年の間に築き上げた、「ドイツの民主主義と(その前提である)寛容性、連邦制としての自信、国家としての実績」なのだ。ボンでは望みようのなかった何かをこの町が提供できるとすれば、「困惑させるほどに歴史的な町が人に与える興奮」と重厚な政治論争の場であろう。

ロシア「バーチャル経済」の虚構

1998年11月号

クリフォード・G・ギャディ ブルッキングス研究所研究員

ロシアが市場改革を通じてゆっくりと市場経済へと近づいているとする認識は、まったくの間違いだ。この国の経済は「製造業部門が付加価値を生み出している」とする虚構を、政府、経済の各セクターのプレーヤー、家計がみな受け入れることでかろうじて成立する「バーチャル経済」にほかならない。現実には製造業は労働者や資源産業から受け取った価値以下のものしか生産できていないにもかかわらず、恣意的な価格設定によって価値を生み出しているように見せかけているにすぎない。その結果、原材料の仕入れ先にも、労働者にも支払いがなされず、税が現物で納められるようなキャッシュレス経済が誕生している。当然、膨大な財政赤字を抱え込んでしまった政府による家計への再分配機能も麻痺している。欧米や国際機関を通じた緊急支援は、彼らが現実を直視する時期を先送りするだけであり、今日の問題を明日の問題に置き換えるだけだ。「バーチャル経済」の存在を認識したうえでの痛みを伴う処方、つまり救済策の拒否こそ、われわれ、そして彼らにとっての明日を明るくするであろう。

情報化時代のソフトパワーを検証する

1998年11月号

ロバート・O・コヘイン デューク大学教授  ジョセフ・S・ナイ  ハーバード大学教授

情報量の劇的な増大と伝達コストの大幅な低下に特徴づけられる「情報革命」は、膨大な情報を生みだし、かえって、いかなる情報にも応分の関心が寄せられないという逆説的な状況が生まれている。ここで力を得るのは、雑音と大切な情報を区別できるアクターである。また、このアクターが示す価値判断への「信頼」があるかどうかも重要だ。こうした環境の下では、軍事力に象徴される「強制力」ではなく、理念、文化、制度の魅力によって自らが望ましいと思う方向へと他を誘う「ソフトパワー」が、ますます大切になってくる。透明性、情報公開、そして信頼という点で、国家、それも民主国家は、権威主義諸国や市民団体よりも先を行く存在であり、今後、トランスナショナルの時代が到来しても、その存在が淘汰されることはありえない。ただし、ますます多様な情報源を持つ大衆に信頼されるような存在であり続けるには、国は今後、物的資源よりも、むしろ「信頼を勝ち取る能力」に依存していくことになるだろう。

もし女性が世界政治を支配すれば

1998年11月号

フランシス・フクヤマ ジョージ・メイソン大学政治学教授

「競合的な目的の一つをめぐって団結し、ヒエラルキーにおける支配的な地位を求め、相互に攻撃的熱狂を示すという男性の傾向は、他の方向へと向かわせることはできても、決して消し去ることはできない」。したがって、一般に男性よりも平和と協調を好み、軍事的介入に否定的な女性たちが政治を司れば、世界の紛争は少なくなり、より協調的な世界秩序が誕生するかもしれない。現に、政治環境だけでなく、人口動態からみても、少なくとも民主的な先進諸国では、政治の女性化が今後進んでいく可能性が高い。だが、男性的で野蛮な無法国家の存在が当面はなくならないと考えられる以上、仮に男性政治家は必要でないとしても、依然として男性的な政策は必要になるだろう。「生物学は運命ではない」が、攻撃性その他の生物学的性格から男性が自らを完全に切り離すのも不可能である。必要なのは、人間の本質がしばしば邪悪であることを素直に受け入れて、人間の粗野な本能をやわらげるような政治、経済、社会的システムを構築することだ。この点、社会主義や急進的なフェミニズムとは違い、「生物学的に組み込まれた本性を所与のものとみなし、それを制度、法律、規範を通じて封じ込めようとする」民主主義と市場経済のシステムは有望である。二十一世紀の世界政治が穏やかな秩序になるかどうかを占うキーワードは、「女性」、そして民主社会の多様性である。

アルジェリアという名の悲劇と苦悩

1998年10月号

ラボーアリ・アディ  リヨン大学客員教授

恐怖と抑圧の地と化したこの国の主要なプレーヤーは、政府でもイスラム主義勢力でもない。それは軍部である。主権を行使する軍部は、アルジェリアの最高権力であることを自任し、政府はといえば軍が決めた政策を実施しているにすぎない。今やこの国は、法律などおかまいなしの軍人たちの思いのままだ。さらに悪いことに、自称「民主勢力」も、軍部の非人道的な抑圧策や、イスラム勢力のテロ作戦を押しとどめる力を持っていない。この危機的状況を解決するには、フランスからの独立戦争以来、三十余年も続いてきた軍部と政府という、「非公式な実質的権力と無力な公的権力の二重構造」を取り払わなければならない。本当の権力の所在を明らかにし、軍部は政治に介入するのをやめるべきだ。そのためにも、民主勢力、イスラム主義勢力を含む各政治集団は、行動規範、多党制の尊重、市民的自由、選挙結果を保障するような国家契約にまず合意する必要がある。

細川氏の日米安保論は視野が狭い

1998年10月号

マイク・モチズキ ブルッキングス研究所上席研究員 マイケル・オハンロン 同研究所研究員

「日本の軍国主義はもはや現実の脅威ではないという細川(護熙)元首相の指摘は正しいが、であればこそ、日本が戦闘面での役割や責任を回避する根拠も存在しないのだ」

日本の官僚制を擁護する

1998年9月号

ピーター・F・ドラッカー クレアモント大学大学院教授

アメリカ人は、国家安全保障が脅かされぬ限り、政治決定において最優先されるのは経済だとみるが、日本人は、社会を第一に考える。日本では「政策の社会的衝撃がどのようなものになるか」が主要な関心事であり、世界的にみれば例外は、むしろ経済第一主義をとるアメリカのほうだ。未曽有の金融危機を前にしても、日本の官僚が経験知による教訓から先送り戦術にこだわるのは、経済そのものよりもむしろ諸問題の社会的衝撃を懸念しているためだ。一般に、その存在が社会的に受け入れられている社会エリートたちは、自らを脅かす強力な代替的存在が出現しない限り、権力を維持し続けるもので、日本の官僚も例外ではない。よって、ワシントンの対日政策は、今後も日本では社会的混乱の回避を最優先とする官僚主導型の政策決定が行われるという前提を踏まえたものでなければならない。「日本で社会的混乱が起きれば、現在のワシントンの働きかけによって得られる目先経済の利益など吹き飛ばしかねない」のだから。

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