1994年以降に発表された邦訳論文を検索できます。

に関する論文

高齢化社会という灰色の夜明け

1999年3月号

ピーター・G・ピーターソン  外交問題評議会理事長

人口のほぼ一九%が高齢者で占められるフロリダ。これと同じ状況に先進諸国が直面するのは,そう遠い未来の話ではない。二〇〇三年にイタリア、二〇〇五年に日本、二〇〇六年にドイツがもう一つの「フロリダ」となる。イギリス、アメリカ、カナダもほどなくこれに続く。先進国社会の急速な高齢化がもたらす諸問題とコストは、投げだすのが合理的と判断しかねないほどにあらゆる意味で膨大である。各国の貯蓄は瞬く間に底をつき、財政が火の車になるだけではない。国内の政治力学、国際的資本の流れ、南北の力関係が逆転し、先進諸国から利他的な外交要素がなくなり、グローバルな安全保障が極度に不安定化する危険さえある。「自らの運命を管理し、より持続可能なコースへと道を変える時間的余裕があるうちに、現状を変革するしかない」。決断を下すべきは今で、「世界高齢化サミット」を開催し、この問題のための国際機関を設けることが急務だ。さもなくば、世界は「持続不可能な経済的負担と政治的・社会的苦難の後、悲痛な動乱の時代」へと突入することになりかねない。

Review Essay
江沢民とは何者か

1999年3月号

セス・ファイソン  ニューヨーク・タイムズ上海支局長

毛沢東、鄧小平とは違って、江沢民には自らの奉じる信条への確信が醸しだすカリスマもなければ、他を圧倒するような権限もない。権力の座を射止めて四年がたった時点でも、彼は公の場で自由に発言さえできない。こうした江沢民流の慎重であいまいなリーダーシップは、中国での共産主義の先行き不透明感を反映しているのだろうか。「優柔不断で矛盾に満ち、なんとか状況を乗り切ることばかりを考え」「自分の昇進の鍵を握る目上の人物との関係を築き、それを育むことに長けた」この一見凡庸な人物が、いったいどのようにして遠大な内部抗争に勝利を収めたのか。中央統制経済から市場経済への移行が引きずりだした大きな変化をいなしつつ、なぜ、かくも穏便に世代交代を実現できたのだろうか。

経済制裁は外交に不可欠だ
――外交と経済ロビイスト

1999年3月号

ジェシー・ヘルムズ 米上院外交員会委員長

ワシントンの企業ロビイストは、アメリカ議会は「制裁依存症」にかかっており、「制裁という選択肢を前にすると欲望を押さえきれない」とまで言う。「世界の人口の四〇%強が何らかの形でアメリカの経済制裁の対象にされている」とする彼らの言い分が、いまや一人歩きをはじめている。だが、これは完全な間違いである。こうしたロビイストの意図は、アメリカの道徳性や国益を無視してでも、企業利益の最大化をはかることにある。だが、彼らは現実を知らない。アメリカ市民、そして、企業の大半も、経済利益よりも、大量破壊兵器、人権弾圧、テロリズムという脅威への対応の方が大切だと考えているのだ。「抑圧体制の独裁者に拷問の道具を買う金を与えてまで、新たな雇用など生み出す必要はない」。無責任にも外交政策に介入しようとするロビイストは「恥を知るべき」だろう。

「アメリカの核の傘は必要だが、駐留米軍の規模は削減していくべきだ」。これが細川元首相が『フォーリン・アフェアーズ』に寄せた「米軍の日本駐留は本当に必要か」の提言の骨子だった。同氏は、冷戦後、東アジアの国際関係が好ましい方向へと変化するなかで、米軍のプレゼンスに対する日米の認識の隔たりが生じ、大切な二国間関係を損ねる恐れがあると警鐘をならし、特に、九五年の特別協定(SMA)に基づく日本側の経費負担は、協定が期限切れになる二〇〇〇年以降は継続すべきではないと主張した。これに対して、マイク・モチヅキ氏、マイケル・オハンロン氏は、日米同盟への貢献の度合いはアメリカの方がはるかに高いとして、日本は必要なら憲法を改正してでも、同盟国としての安全保障上の責務を負うべきだと反論した(「細川氏の日米安保論は視野が狭い」)。以下は、細川氏の提言に対する山中あき子衆議院議員による反論。(注1)

コソボ・歴史をめぐる闘いは続く

1999年3月号

ノエル・マルコム  ケンブリッジ大学教授 / アレクサ・ジラス    前ハーバード大学ロシア研究センター研究員

昨年秋、『フォーリン・アフェアーズ』誌上で、元ハーバードの社会学者、アレクサ・ジラスは、コソボをテーマとするノエル・マルコム(ケンブリッジ大学の社会学者)の著作『コソボ概説史』を書評に取り上げた。(注1)ジラスは、筆者のマルコムは「分離独立を求めるコソボのアルバニア人に同情的すぎるし、その立場も反セルビア的で、バルカン問題をめぐる勝手な思いこみがすぎる」と手厳しく批判した。これに対して、マルコムは、「アルバニア人によるコソボの歴史の解釈よりも、セルビア人のコソボ史解釈のほうがより多くの虚構を内包しているのは明らかだ」と、アルバニア人の立場にたって反論する。「コソボ」は民族対立だけでなく、歴史解釈の対立の様相も持ち、それだけに根が深く、熾烈な闘いは学問領域にも及んでいる。以下は、ジラスの書評に対するマルコムの反論と、ジラスによる再反論。

本当に国家間に戦争は起きないのか

1999年2月号

ステフェン・M・ウォルツ  シカゴ大学政治学教授

超大国間の制度・イデオロギー、利害の対立を軸とする冷戦の終結、そしてフランシス・フクヤマに代表される「歴史の終わり」的見方に促されるように、人々は民主国家だけで構成される世界がどのようなものか、つまり、民主主義と平和の相関関係に思いを巡らすようになった。このテーマは学者の研究対象であるだけでなく、現実の政策にも大きな影響を与え得る。ここに取り上げた著作が指摘するように、制度や価値を共有する国家、つまり似たもの同士は戦争しないと考えるのは果たして賢明だろうか。「根本的に異なる国家が存在しなくなれば、民主国家間の摩擦や軋轢が目立つようになるのではないか」。利害の対立がより先鋭化すれば、特に、専制君主や独裁者に対抗して力を合わせる必要がなくなれば、むしろ、民主国間で不愉快な区別や差別がなされるようになると考えてもおかしくはないのではないか?

ポスト冷戦秩序の誤算

1999年2月号

チャールス・ウイリアム・メインズ   前『フォーリン・ポリシー』誌編集長

「どこか、何かが狂ってきている」。現状は、冷戦後に欧米諸国が組み立てた市場経済、民族紛争、戦略に関する前提のすべてが間違っていたことをわれわれに教えている。市場経済を導入するには政治改革が不可欠で、そのタイミングが難しいこと。民族紛争が本質的に「アイデンティティと生存」をかけた闘いであること。そして、現在の脅威には抑止戦略が機能しないことを、われわれは当時理解していなかった。市場経済民主主義というモデルは、すばらしいながらも一方で欠陥を内包している。これを人類に大きな利益をもたらすシステムに改編するには、地域的な火事を封じ込めるような、防火壁を相互の理解の上にめぐらす必要がある。さらに、民族紛争の本質をわきまえた上で、状況管理型の戦力を編成することも急務だ。多くの国々が一つのモデルを採用しつつあるという、この歴史上かつてない機会を活かすのに必要なのは、現状の欠陥を踏まえた上での、さらに壮大な「ビジョン」にほかならない。

外交問題評議会リポート
外圧と日本の変化

1999年2月号

アイラ・ウォルフ  元USTR次席交渉者

このリポートは、一九九八年十月二十二日にニューヨーク外交問題評議会で行われた、「日米経済関係の新パラダイム」に関する研究会での背景説明資料である。

クリントン・スキャンダルと大統領制

1999年2月号

セオドア・C・ソレンセン  ケネディ政権・大統領特別補佐官

クリントン大統領は宣誓の下で、国民に対して嘘をついただけでなく、長官たちとホワイトハウスのスタッフにも嘘をついていた。国務長官、財務長官その他の高官たちは、真実を調査中の大陪審で、事実上、大統領への嫌疑が事実無根であることを繰り返し述べる羽目になった。数カ月後に真実が明るみに出たときの、彼らの苦悩は想像に難くない。「大統領の秘密を守る義務とは、彼に仕える公僕たちが、嘘をついたり、宣誓の下で偽証することではない。大統領の掲げる大義に高官が自らを捧げているとしても、犯罪に加担することを強制されることはありえないからだ」
ホワイトハウスという船が傾きかかっているときに、傷ついているのは大統領だけではない。国家も痛手を受けている。補佐官や側近がなすべきは、「大統領への忠誠」を正しく理解し、いかなる方法でどの程度路線を(正しい方向へと)修正できるかを考えることだろう。

米中接近がアジアを揺るがす

1999年2月号

テッド・ギャレン・カーペンター  ケート・インスティチュート国防・外交政策担当副会長

クリントン政権の訪中ミッションに象徴されるワシントンの対中接近策は、中国を安全保障上の脅威とみなすインドを憤慨させ、将来への不安を募らす台湾を軍事自主路線の方向へと向かわせただけでなく、古くからの同盟国である日本をも動揺させた。「インドはアメリカが中国から守ってはくれないと結論して、自国の安全は核で守ると決意し」、日本、台湾のアメリカへの信頼も低下している。
 訪中した米政府高官による手厳しい対日批判を、「第二次世界大戦以来初めての米中共同による公の日本批判だ」ととらえる専門家もいるし、一方日本では、戦略を練り直して米中とやり合えるような政治大国になることを考える人もいる。対中接近が伴った余波の帰結がどのようになるか予断を許さないが、「ワシントンは、自らの対中政策が引き起こした、これらの意図せぬ結末を最終的には後悔することになろう」。

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