1994年以降に発表された邦訳論文を検索できます。

論文データベース(最新論文順)

まぼろしのアジア経済

1995年1月号

ポール・クルーグマン
スタンフォード大学経済学教授

アジアの経済成長は奇跡ではない。持続的な経済成長には、「投入の増大」と「生産効率の改善」の双方が必要だが、アジア諸国の経済成長のほとんどは、労働力の拡大、教育レベルの改善、物的資本への投資など、持続的には行い得ない「投入」の増大によって説明できてしまうからである。実際、日本を例外とすれば、そこには生産効率の改善の形跡などほとんど見られない。いずれ陰りが見えてくるのがわかっている投入増大型の経済成長を、将来にそのまま当てはめ、世界経済の将来を論じても何の意味もない。われわれは、誤った前提を基にする過大な経済予測やそれに伴う思いこみに振り回されることなく、現実の数字、つまり「数字という暴君」を素直に受け入れるべきである。

民主主義の道徳的危機

1994年10月号

チャールズ・メイヤー ハーバード大学教授

冷戦における勝利も、いまや排外主義の台頭、伝統的政党への不信、政治に対する冷めた態度などによって急速に色あせたものとなりつつある。実際、われわれは「政治からの逃避、論争に対する嫌気、主張をめぐる信念のなさ、論争の結果に対する不信、論争に加わる人々への蔑視」といった態度が幅をきかすような民主主義の「道徳的危機」のただなかにある。
 変化や進歩を許容できるような改革主義が否定されてしまっているため、市民たちは、民族、イデオロギー上の多元主義状況を否定的にとらえだしている。現状が続けば、サミュエル・ハンチントンが指摘するような「文明の衝突」というゆゆしき事態に直面することになりかねない。
 この憂鬱な予測を覆すには、われわれは、「民族問題だけでなく、市民社会の不完全な状態の(改善に向けた)コミットメントを示し、保護主義への傾斜を回避し、民族性や文化的なつながりを超えた共通の大義を推進していく必要がある」。

競争力という名の危険な妄想

1994年5月号

ポール・クルーグマン マサチューセッツ工科大学教授

「国家が直面する経済問題を、世界市場をめぐる競争力の問題とみなし、コカ・コーラとペプシがライバルであるのと同様に、米国と日本がライバルであるかのようにとらえる見方」がいまや普遍的になされ、「貿易収支を国家の競争力の目安」とする考えがもてはやされている。その結果、「輸入によって高賃金の雇用が失われ、補助金をバックにした諸外国の競争によって、米国は高付加価値部門からの締めだされつつある」という認識が定着しつつある。だが、企業と国家を同一視し、貿易収支を国の競争力の目安と見るのは、完全な誤りである。競争力を軸とする誤った前提を今後も受け入れ続ければ、国内・国際経済の双方における誤った政策の採用に道を開き、国内の生産性は停滞し、貿易紛争の激化は不可避となる。なぜ、経済問題に対して競争力を軸とする説明がなされがちで、それが安易に受け入れられてしまっているのか。どうしてそれが誤っているのか、われわれはその前提を根本から検証し直す必要がある。

文化は宿命である

1994年5月号

リー・クアンユー 元シンガポール首相(論文発表当時)
ファリード・ザカリア 『フォーリン・アフェアーズ』副編集長(論文発表当時)

東洋の社会においては、個人が家族の延長線上に存在すると考えられている点にある。個人は家族から分離した存在ではないし、一方では、家族も親類の一部、友人の環、より大きな社会の一部として存在する。

南アフリカ今後の外交政策

1994年1月号

ネルソン・マンデラ
アフリカ民族会議議長(論文発表当時)

新生南アフリカの最大の課題は、「人種、肌の色、信条、宗教、性の違いを問わず、すべての人が自らの人間性を十分主張できるような国家を誕生させることにほかならない」。そして、「市民の権利を保障できるのは、真の民主主義の実現をつうじてのみ」だ。今後、市民の権利は、「人民の、人民による、人民のための政府の登場によって」保障されることになる。一言でいえば、「多様性と人権の尊重」こそ、今後のわれわれの国内・外交政策双方における中核理念なのだ。また、アパルトヘイト政策によって孤立化してきた南アフリカを、国際的な政治・経済システムに再編していくことも急務だ。経済面では、市場アクセスや外資の導入を確保するとともに、保護主義的政策を段階的に改め、政治面では、国連を中心とした国際機構に積極的にコミットしていくつもりだ。国際的、地域的、そして国内的に、責任ある政治勢力として振舞うことこそ、民主化、国際化の唯一の方策と信じる。

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