1994年以降に発表された邦訳論文を検索できます。

論文データベース(最新論文順)

原爆投下は何を問いかける?

1995年2月号

バートン・J・バーンスタイン
スタンフォード大学歴史学教授

原爆が戦争終結の時期を早めたという議論の根拠はとぼしく、「たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない」。加えて、米国の指導者のなかで、一九四五年の春から夏の段階において、「五十万の米国人(将兵)の命を救うために」原爆を使用すべきだと考えていた者など一人としていなかった。広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、二十億ドルもの資金を投入したプロジェクトのもつ政治的・機構的勢い、そして、第二次大戦の熾烈な戦闘を通じて、(市民を戦闘行為に巻き込まないという)旧来の道徳観が崩れてしまっていたからにほかならない。この道徳観の衰退こそ、後における核兵器による恐怖の時代の背景を提供したのである。ドイツや日本の軍国主義者たちだけでなく、なぜ、米国を含む他の諸国の道徳観までもがかくも荒廃していたのか、この点にこそわれわれが歴史の教訓として学ぶべきテーマが存在する。

まぼろしのアジア経済

1995年1月号

ポール・クルーグマン
スタンフォード大学経済学教授

アジアの経済成長は奇跡ではない。持続的な経済成長には、「投入の増大」と「生産効率の改善」の双方が必要だが、アジア諸国の経済成長のほとんどは、労働力の拡大、教育レベルの改善、物的資本への投資など、持続的には行い得ない「投入」の増大によって説明できてしまうからである。実際、日本を例外とすれば、そこには生産効率の改善の形跡などほとんど見られない。いずれ陰りが見えてくるのがわかっている投入増大型の経済成長を、将来にそのまま当てはめ、世界経済の将来を論じても何の意味もない。われわれは、誤った前提を基にする過大な経済予測やそれに伴う思いこみに振り回されることなく、現実の数字、つまり「数字という暴君」を素直に受け入れるべきである。

民主主義の道徳的危機

1994年10月号

チャールズ・メイヤー ハーバード大学教授

冷戦における勝利も、いまや排外主義の台頭、伝統的政党への不信、政治に対する冷めた態度などによって急速に色あせたものとなりつつある。実際、われわれは「政治からの逃避、論争に対する嫌気、主張をめぐる信念のなさ、論争の結果に対する不信、論争に加わる人々への蔑視」といった態度が幅をきかすような民主主義の「道徳的危機」のただなかにある。
 変化や進歩を許容できるような改革主義が否定されてしまっているため、市民たちは、民族、イデオロギー上の多元主義状況を否定的にとらえだしている。現状が続けば、サミュエル・ハンチントンが指摘するような「文明の衝突」というゆゆしき事態に直面することになりかねない。
 この憂鬱な予測を覆すには、われわれは、「民族問題だけでなく、市民社会の不完全な状態の(改善に向けた)コミットメントを示し、保護主義への傾斜を回避し、民族性や文化的なつながりを超えた共通の大義を推進していく必要がある」。

競争力という名の危険な妄想

1994年5月号

ポール・クルーグマン マサチューセッツ工科大学教授

「国家が直面する経済問題を、世界市場をめぐる競争力の問題とみなし、コカ・コーラとペプシがライバルであるのと同様に、米国と日本がライバルであるかのようにとらえる見方」がいまや普遍的になされ、「貿易収支を国家の競争力の目安」とする考えがもてはやされている。その結果、「輸入によって高賃金の雇用が失われ、補助金をバックにした諸外国の競争によって、米国は高付加価値部門からの締めだされつつある」という認識が定着しつつある。だが、企業と国家を同一視し、貿易収支を国の競争力の目安と見るのは、完全な誤りである。競争力を軸とする誤った前提を今後も受け入れ続ければ、国内・国際経済の双方における誤った政策の採用に道を開き、国内の生産性は停滞し、貿易紛争の激化は不可避となる。なぜ、経済問題に対して競争力を軸とする説明がなされがちで、それが安易に受け入れられてしまっているのか。どうしてそれが誤っているのか、われわれはその前提を根本から検証し直す必要がある。

文化は宿命である

1994年5月号

リー・クアンユー 元シンガポール首相(論文発表当時)
ファリード・ザカリア 『フォーリン・アフェアーズ』副編集長(論文発表当時)

東洋の社会においては、個人が家族の延長線上に存在すると考えられている点にある。個人は家族から分離した存在ではないし、一方では、家族も親類の一部、友人の環、より大きな社会の一部として存在する。

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