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論文データベース(最新論文順)

米軍の日本駐留は本当に必要か

1998年8月号

細川護熙
日本国元首相

「冷戦期の共通の脅威が消滅していくにつれて、日本人が国内における米軍の軍事プレゼンスに懐疑的になるとしても無理はない」。しかも、日本の防衛の多くをこれまで実質的に担ってきたのは、駐留米軍というよりも、日本の自衛隊である、と細川元首相は示唆する。米軍による核抑止力(核の傘)は依然必要だとしても、「冷戦後」という新時代の進展とともに「アメリカの日本での軍事プレゼンスを今世紀の末までにしだいになくしていくべき」だし、何よりも「同盟関係と基地の存在」をめぐる日米間のパーセプション・ギャップ(認識の隔たり)が大切な二国関係を損なう前に、「二十一世紀にふさわしい同盟関係のあり方を議論」すべきであり、その任にあたるのは「官僚や将軍たちではなく、(日米の)政治家」でなければならない、と。

台湾海峡紛争をいかに回避するか

1998年7月号

チャス・W・フリーマン 米中政策財団共同会長

二年半前、米中両国は、双方とも望まず、予期もしていなかった軍事的対立局面へと引きずり込まれた。しかし、一九九六年三月に起きた米空母と中国の戦艦および陸上配備ミサイルによるこのにらみ合いは、今にして思えば、有益な効果があったようである。両国はこの危機を通じて米中関係をうまく管理することがいかに大切で、この二国間関係の管理のための中核的要因が、いまなお台湾の地位であることを思い知らされたからである。
以来、米中政府は、一連の二国間問題や国際的問題に関する相互尊重に基づく対話チャンネルの確立にむけて努力してきた。首脳会談やその他の高官による会談が、再び米中外交の常態となり、その後、台湾海峡で軍事対立は起きていない。昨年秋、クリントンは江沢民と会談したさいに、中台間の対話ができるだけ早く再開されるようにと促し、対話決裂についての互いの非難合戦という三年間を経て、北京と台北は、どのようにして会談をもち、そこでどのような問題を取り上げるかについての具体的提案を最近になって交換しはじめた。
かえりみれば、九五年六月に李登輝総統が米国を訪問するまで、中台関係は、非公式の経済文化的交流や対話を通して、和解の方向へ向かいつつあった。海峡を挟んだ二つの勢力間には、なんらかの再統合策をつうじた「一つの中国」という理想およびその必要性についての合意が存在した。米国も支持していたこの合意は、平和と交渉しやすい雰囲気をつくり出していた。しかし、今ではこの合意も崩壊している。しかも台湾は、米国の軍事的後ろ盾によって独立運動を起こせると思いこんでいるようだ。戦争を未然に防ぐには、ワシントンは、北京と台北が、お互いに受け入れ可能な関係を形成する時期にきていること、そして、現状を一方的変化させるような試みは、それがいかなるものであれ、受け入れられないことを双方に納得させなければならない。

二十一世紀もまたアメリカの世紀となる

1998年7月号

モーティマー・B・ザッカーマン  U. S. News and World Report社会長

アメリカ経済の好調ぶりは偶然ではなく、その好調が当面続くとするニューエコノミー論もまたまやかしではない。この成功は、「一匹狼的な人材を育て、若者を育み、新来者を歓迎し、下からわき上がってくるエネルギーや才能に対して驚くほど開放的」なアメリカ文化が、「グローバル経済」の必要性に見事に適合したことによって実現した。過去における危機を教訓につくり出された透明な会計システムを背景とする果敢な投資行動と金融商品の多様化、海外の労働者の賃金が自らの雇用に影響を与えることを理解している順応力に富む「労働者」、進取の精神を理解する投資家と緩やかな規制によって育まれた先鋭的「小規模企業」。これが、情報革命を機に産業経済から「サービス・情報経済」へと移行したアメリカにおける、低いインフレと高い成長の両立を可能としているのだ。好調は当面続き、二十一世紀もまたアメリカの世紀になるだろう。

アメリカの驕りを糺す

1998年7月号

ポール・クルーグマン マサチューセッツ工科大学経済学教授

GDPの伸び率がほぼ四%に達し、失業率もこの二十五年来最低の四・六%。しかも、インフレも二%以下という低レベル。このアメリカ経済の好調ぶりが、ヨーロッパ、日本、アジア経済の停滞とあいまって、アメリカはひとり景気循環の波を克服したとする「ニューエコノミー」論の台頭を促している。だが低い失業率は、主に労働市場における一過性の要因がもたらした一時的現象で、当然持続可能なわけではなく、インフレの兆候もすでに出始めている。加えて、言われるような「数字に表れない生産性の劇的な向上」が達成されたわけでもない。若干低めの失業率で成長を遂げたといっても、ニューエコノミーはオールドエコノミーとかなり似通っているのだ。米国で穏やかなリセッションが起こり、ヨーロッパ経済、日本経済が穏やかな回復を示し、新興アジアが急激に復活すれば、その虚構は打ち砕かれるはずで、そうなる可能性は決して低くない。

欧州統合という幻想

1998年7月号

ティモシー・ガートン・アッシュ
オックスフォード大学評議員

統合への道をさらに進めない限りこれまでの試みも失敗に等しい、とヨーロッパの人々が確信しているのなら、それこそこれまでの成果も台なしとなろう。事実、通貨統合への強制的な行進は、われわれが手にしている協調や平和という価値を脅かしつつある。すでにわれわれがヨーロッパの西半分で、リベラルな秩序を確立し、協調、平和、自由という価値を諸制度のなかに織り込むという大きな成果をあげているのを忘れてはならない。欧州連合(EU)、NATO、欧州評議会、全欧安保協力機構などは、そうしたリベラルな秩序を構成する積み石なのだ。拙速に通貨統合を急ぐのではなく、こうした制度に織り込まれた価値をヨーロッパの東側へと広げていくことこそ、グローバル時代、そして二十一世紀に向けたヨーロッパのビジョンとして過不足なくふさわしい。あまりに遠大な目的を性急に実現しようとして危機を招くよりも、まず足元にある成果を広げていくことこそ、現実的方策ではないか。

グローバル経済が求める「法の支配」

1998年6月号

トマス・キャロサース  カーネギー国際平和財団研究部長

経済グローバル化の潮流のなか、資本家たちは安定性、透明性を投資対象国に強く求め、投資を引きつけたい諸国も、ある程度はこれを理解している。そして、安定性、透明性、「説明責任」の鍵を握るのが「法の支配」の確立なのである。法改革がある段階で停滞し、特権的な銀行家、財界人、政治家がつくる閉鎖集団間の仲間内の取引をめぐる不透明な状況を取り除けなかったことが、アジア危機の背景として広く指摘されている。グローバル時代における「法の支配」確立の重要性は自明だが、単に法制度、法律を整備するだけでは十分ではなく、政府そして特権的指導者が自らも法の支配の下にあることを受け入れることが不可欠である。

アジア経済モデルは淘汰されたのか

1998年6月号

ドナルド・K・エマーソン ウィスコンシン大学政治学教授

アジアの経済危機によって、今や「東アジア・モデル対アメリカ・モデル」の対立構図も色あせ、米モデルへの「収斂」論が優勢になっているだけでなく、経済を超えた政治・社会モデルの収斂化さえも議論されている。説明責任、透明性の面で米モデルに見劣りし、腐敗しがちなアジア型開発モデルが、危機の背景を提供したのは間違いない。だが、かといって民主主義や政治的自由の欠如が危機の深刻化を招いたとも断言できない。ひと口に民主主義といっても、そこに法の支配がなければ、優れた統治の障害となることもあり得るからだ。最終的にリベラルな民主主義をアジアが選択するとしても、それが米モデルの採用になると決めつけるのは、時期尚早である。

日本は金融崩壊へと突き進むか

1998年6月号

エドワード・J・リンカーン ブルッキングス研究所上席外交政策研究員

低迷する経済、膨大な不良債権、年金の財源不足を前に、日本経済はぬきさしならぬ状態に陥っている。新たに実施されている政策の多くは、不良債権の処理を遅らせるばかりか、その意図とは逆に、金融部門全般にわたる政府管理を強化することになるだろう。ビッグバンのイメージとは裏腹に、日本は現在の問題を、現行システムの根幹にはそれほど関係のない一過性の出来事と見ている。日本経済の低迷を打開し、その国際的余波を回避するには、いかに大きな改革、政策転換が必要か、それが日本、アジア、米国にとっていかに大切か。これを日本に理解させるには、米国が日本との交渉・協議チャンネルをすべて閉ざすというショック療法が必要なのかもしれない。

資本の神話

1998年5月号

ジャグディシュ・バグワティ コロンビア大学教授

アジア経済危機の余波が残るなか、国際政治の世界は一つの主流ともいうべき見解に支配されている。いや、有力な「神話」と称すべきかもしれない。資本移動の自由化に必然的につきまとう、危機に弱い性質がこれほどまでに明らかになったというのに、資本移動が完全に自由化された社会は今後も必要であり、限りなく望ましいものだ、と考えられているのである。規制の維持よりも、資本の流れの自由化をめざすことが、唯一賢明な方法だといわれている。解決策として望ましいのは、危機に襲われた国々に対する最終的な救済資金の出所として、IMF(国際通貨基金)の立場をより明確にすることだというのだ。事実、IMFは昨年九月に開かれた香港での年次総会で、この方向に向けて画期的な一歩を踏み出した。この総会でIMF暫定委員会は、事実上、資本勘定の兌換性への最終的移行を支持する声明を発表したのである。これはつまり、「国民であれ外国人であれ、IMF加盟国においては、だれでも自由に資本を出し入れできる」という意味である。一九四四年(IMF設立時)の規約には、「経常取引の支払いに対する規制は避ける」という任務が定められているのみで、資本勘定の兌換性がIMFのめざすべき課題ないし目標とはされていなかったのである。資本取引の兌換性とは魅力的な発想だ。貿易の自由化が善であるなら、国境を越えた資本移動も自由化したってかまわないではないか。だが、「資本移動の自由化には、大きなメリットが伴う」という主張には説得力がない。かなりのメリットがあるとは主張されているが実証されていない。メリットのほとんどは、直接投資からえられるものだ。IMFを強化し、運用手法を変えたとしても、危機を根絶したり、その犠牲を大幅に抑制することにはならないだろう。むしろ、資本移動の自由化という神話は、「軍産複合体」を批判したアイゼンハワー大統領にならっていえば、「ウォール街=財務省複合体、あるいは金融=財政複合体(A Wall Street-Treasury Complex)」とも呼ぶべきものから生まれたのである。

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