原発事故が子供たちと経済に与えた影響
―― チェルノブイリの教訓
(1986年発表論文)
Learning from the Chernobyl
2011年9月号掲載論文
チェルノブイリ事故の放射能はヨーロッパへと飛散し、大陸に大きな懸念と心理的なトラウマを作り出した。欧州経済共同体(EEC)は、チェルノブイリから半径1000キロ以内の地域・国から生鮮食料品の輸入を禁止し、公衆衛生当局は、異なる放射線量基準を用いて、チェルノブイリの周辺地域で生産された野菜やミルクが消費されるのを阻止するために様々な措置をとった。・・・低レベル放射線被曝がどのような影響を人体に与えるかについては、専門家の間でもコンセンサスはない。われわれが自然界から放射能を日常的に受けていることは誰もが知っているし、特定の放射性物質は体内でも生産される。必ずしも無害とは言えない、こうした「バックグラウンド」放射線量のレベルは一般に年間100ミリレム(=1ミリシーベルト)と考えられている。この数字が、人工放射線被曝のベースラインとされたにすぎない。・・・・
- かつてはのどかな地域だった(部分公開)
- いかに事故は発生したか(部分公開)
- 原発事故の健康被害にどう対処したか(部分公開)
- 放射能汚染と子供たち
- 低レベルの放射線被曝
- 人工放射線量被曝の基準は存在するのか
- 原発事故の経済コスト
<かつてはのどかな地域だった>
1986年4月以前、つまり、事故が起きる前のチェルノブイリ原発には4基の原子炉が存在した。それぞれが100メガワットの電力を生産し、さらに2基の原子炉が建設中だった。キエフの南北に広がるドニエプル川流域沿いに立地するチェルノブイリは、ライ麦や乳製品を生産する農業地帯に囲まれ、南にはウクライナの広大な穀倉地帯があった。1970年代に建設労働者や原子力施設で働く人々のために作られた人口4万9000人のプリピャチの町、そして1万2000人が暮らすチェルノブイリの町を例外にすれば、このあたりは、500―700人規模の村落が点在するだけの、のどかな地域だった。だが、55マイル(約88・5キロメートル)北には人口21万のチェルニゴフが、60マイル(約96・5キロメートル)南には230万の人口を持つソビエトで3番目に大きなキエフがあった。
事故を起こした4号炉は、1983年から稼働していた。他のチェルノブイリの原子炉、そしてソビエト内の10の原子力施設の原子炉同様に、4号炉は、中性子の速度を落とし、核分裂連鎖反応を維持するためのモデレータとして黒鉛を用いる黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)だった。このタイプの原子炉は1954年に建てられたオビンスク原発施設の原子炉の進化モデルだった。
ソビエト当局は原発事故が起きることを常に警戒していた。すでに1957年に、おそらくは数百人が直接的に犠牲になったウラル地方にある原発施設での事故を経験していたからだ。この事故の全貌は今もはっきりとはわかっていないが、原子炉そのものではなく、核廃棄物貯蔵施設の爆発が原因だったと考えられている。
<いかに事故は発生したか>
チェルノブイリ原発の事故は、1979年のスリーマイル原発事故とほぼ同様に、オペレーターの判断ミスによって始まり、RBMKの制御の難しさゆえに深刻化していった。皮肉にも、きっかけは安全装置の動作試験を行ったことだった。
モスクワの当局、あるいは原発施設の責任者が安全装置の動作試験の実施を認めたかどうかさえわかっていないが、動作試験をした理由ははっきりしている。4号炉を含む原発施設の装置のすべては、施設内の電源がストップした場合には、外部電源に依存するように設計されていた。内部、外部の電源がともに途絶えれば、冷却措置が動作しなくなり、原子炉が自動的に停止してもメルトダウンが起き、放射性物質が放出される。このリスクへの対抗策として、施設には非常用ディーゼル発電機が設置されていた。問題は、内部・外部の電源が途絶えてから、ディーセル発電による電力が供給されるまでに40秒の空白が生じることだった。
オペレーターは、蒸気タービンが残された運動エネルギーで動き、発電することで、外部電源も内部電源も切れてからディーゼル発電機の電力が供給されるまでの間、重要なシステムが間断なく動くかどうかを確認しなければならないと考えていた。
1982年と1984年に実施されたテストでは、原子炉の力学的エネルギーは、ディーゼル発電機が電力を供給するまでに使い果たされ、冷却水ポンプを動かす電圧も失われた。1986年の実験は、新たな装置を用いることで、ディーゼル発電機によって電力が供給されるまで、電圧を維持できるかどうかを試すことだった。施設の電力装置を担当した企業の関係者とともに、チェルノブイリのオペレーターは、危険な状況に陥ることなどとはよもや考えもせずに、事故を想定した実験に着手した。
実験の準備が開始されたのは4月25日午後1時。原子炉の出力が半分に落とされ、1時23分、オペレーターは、二つあるタービン発電機の一つの電源を切った。午後2時に、緊急対応システムが作動しないようにするための措置をとり始め、実験に抵触しないように緊急冷却ポンプのスイッチも切られた。その直後に、実験の開始を9時間先送りすることが決定された。午後11時10分に、原子炉は電力供給網から切り離され、実験への準備が再開された。
この時から実際に実験が行われる2時間後までに、オペレーターが標準的な低出力での稼働手続きを怠ったために、原子炉はしだいに制御不能に陥っていった。原子炉の出力を700―1000メガワットに落とすことが想定されていたが、実際には安全な稼働レベルを大きく下回る、わずか30メガワットへと低下していた。出力を上昇させようと、オペレーターは制御棒を抜き、安全基準からみれば30本はなければならない制御棒は、この時点で6―8本へと減少していた。計画では、より多くの冷却水を原子炉に送り込む予定だったが、原子炉の出力が落ちて不安定になっていたために、少しの温度変化でも大量の蒸気が発生し、出力が急上昇する危険があったために、これは見送られた。
オペレーターは、実験に支障をきたさないようにと、さらに自動安全装置を停止させ、その結果、出力の急上昇を制御するのはさらに難しい状態になった。テストが開始される前に、コンピューターは、原子炉が緊急自動停止能力を失いつつあることを警告していたが、すでに夜更けでオペレーターたちが疲れ果てていたため、責任者は、今実験をしなければ、次回の年次メンテナンスまで、そのチャンスがなくなると考えて実験を強行した。
4月26日の午前1時23分、オペレーターは、内的補助電源を作動しないようにするために、タービン発電機に水蒸気を送り込む装置を停止させた。タービン発電機は慣性で作動し続けたが、ポンプから送り込まれる冷却水の水位が低下し始め、炉心内の冷却水が液体から気体に変化することによって炉心内のボイド係数が高まり、冷却水が沸騰した。出力レベルが高まり、原子炉はしだいに制御不能な状況へと陥っていった。
実験が開始されてから36秒後に、オペレーターは出力を制御しようと制御棒を操作して入れようとしたが、十分な制御棒が所定の位置に入らなかった。3秒もしないうちに、出力は530メガワットへと上昇した。アメリカの研究者は、この段階で、中性子の分裂が刺激され、核燃料が急速に過熱された結果、水素爆発へとつながっていったとみている。それから2―3秒後に2度目の爆発が起きた。これは水素か一酸化炭素が空気に触れたためか、出力が再び上昇したためだと考えられている。2度の爆発で数千トンはある原子炉の鉄製の釜、建て屋の屋根が吹き飛ばされた。
爆発によって炉心の黒鉛の4分の1がもれだし、施設内で30の火災が発生し、なかには30メートルの高さに達する火柱もあった。3号炉、4号炉のために使われていたタービン施設で火事が起きたために、他の原子炉でも事故が起きる危険が高まったが、幸い、事故後に現場にかけつけた250人の消防士によって、4号炉の炉心内で燃えている黒鉛を別にすれば、すべての火災は午後6時35分までに鎮火した。その後、黒鉛の10%を燃焼させた大火災による放射能の拡散を封じ込める闘いが始められた。状況を何とか管理するまで2週間がかかった。最終的に、炉心にあった放射性物質の3―4%が大気中に拡散した。具体的には、放射性ヨウ素の15―20%、放射性セシウムの10―20%、さらに3%のプルトニウムを含む他の放射性同位元素の5・6%近くが大気中に拡散した。
放射性物質の大気への拡散の4分の1は最初の1日で起きており、その後2週間で、残りの4分の3が大気中に放出された。最終的な解決策は、黒鉛火災を止めることだった。まず、核分裂反応を止める必要があった。40トンの炭化ホウ素がヘリコプターから投下された。さらに、原子炉に向かって800トンのドロマイト、2400トンの鉛、1800トンの粘土と砂が投下された。一方で、瓦礫の下にある原子炉を冷やし、原子炉の底がメルトスルーするのを避けるためにソビエトのエンジニアたちは液体窒素を送り込んだ。原子炉の底が溶ければ、地下50フィート(約15メートル)にある地下水源が汚染される恐れがあった。
<原発事故の健康被害にどう対処したか>
ソビエト政府は公的には何も発表しなかったが、キエフとモスクワの指導者には数時間後にチェルノブイリで事故が起きたことが伝えられた。ウクライナの内務副大臣ゲンナジー・ベルフォグ少将が、事故発生から90分にわたって指揮をとり、原発施設の周辺を現地の軍隊を使って閉鎖した。モスクワから医師と技術者のチームがチェルノブイリ近郊に到着したのは4月26日午前8時。だが、事態の深刻さをクレムリンの指導層が理解したのは、政府と共産党の高官が現地に到着したその日の夕方になってからだった。
ソビエト政府は、事故のダメージを緩和しようとかなりの資源を投入した。プリピャチでの市民防衛手続きの発動は、緊急プランが適切ではなく、森林の退出ルートがひどく汚染されていたために、先送りされた。汚染地域住民とのコミュニケーションラインが復活すると、住民に対して「家から出ないように」と通達が出された。放射能がどこに拡散しているか確信が持てなかった当局は、屋内に居ることが身を守るための最善の策だと考えたのだ。
ボランティアが一部の家庭に、放射性ヨウ素が甲状腺で吸収されるのを防ぐために、ポタシュームイオディン(安定ヨウ素)の錠剤を配った。当初はそれほどでもなかったプリピャチの放射線量が36時間後に急上昇したため、当局は、原発施設周辺に住む住民を1100台のバスで避難させた。最終的に、原子炉から半径18マイル(約29キロメートル)で暮らしていた13万5000人が避難した。このなかには、原発施設から9マイル(約14・5キロメートル)離れたチェルノブイリの町の住民の一部も含まれていたが、その時には、すでに事故から1週間が経過していた。
事態が予想以上に深刻であることを理解した政府はキエフ、ベラルーシ、北ウクライナの子供たちを遠くのリクリエーション施設に避難させた。夏が終わると、子供たちは自分たちの町へと帰ったが、強制避難地域からの子供たちは、キエフ近郊に新たに用意された一時的な住宅で両親と再会した。
邦訳分は英文からの抜粋