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リー・クアンユーへの反論
文化は果たして宿命か

金大中(キム・デジュン) 金大中平和財団理事長

Is Culture Destiny?

1995年1月号掲載論文

  • 民主主義と資本主義(部分公開)
  • リー・クアンユーの世界(部分公開)
  • アジア文化と民主主義
  • グローバルな民主主義の確立に向けて

<民主主義と資本主義>

シンガポールの前首相、リー・クアンユーは、先の『フォーリン・アフェアーズ』(Foreign Affairs, March/April,1994)とのインタビュー記事において、西欧と東アジアの文化的な違い、そして、その違いの政治的な意味あいについての興味深い見解を示した。彼が明確にそういっているわけではないにせよ、インタビューでの発言、そしてこれまでの彼の発言や行動から判断しても、リーが、西欧流の民主主義は東アジアには適用できないという意図をもって、「それが機能するはずのない社会に(米国の)システムを押しつけるべきではない」と発言しているのは明らかである。世界の指導者たちに彼が高く評価されていること、そして彼の発言がこの『フォーリン・アフェアーズ』という権威ある雑誌を通じてなされたことを考えた場合、この類の議論はかなりのインパクトを持つはずであり、それだけに、慎重な分析とコメントに値するといえよう。

一九九一年のソビエトの崩壊とともに、社会主義は大きく後退し、一部には、ソビエトの崩壊は、社会主義に対する資本主義の勝利の結果であると結論する人もいる。だが私は、これは、むしろ、独裁制に対する民主主義の勝利だったと考えている。

資本主義国家だったにもかかわららず、プロイセン・ドイツと明治以来の日本が最終的に悲劇的な結末を迎えたのは、そこに民主主義が存在しなかったからである。最近においても、資本主義を導入していながらも、一方で民主主義を拒否してしまったため、結局は挫折してしまったラテン・アメリカ諸国という例がある。一方で、民主的資本主義、あるいは民主的社会主義を実践している諸国は繁栄を手にしている。

こうした世界的なトレンドが現に存在するにも関わらず、アジアに民主主義が根付くかどうかに関して否定的にとらえる人々がいまだに存在する。こうした立場をとっているのは、おもにアジアの権威主義的指導者たちで、なかでも、この点をめぐって明確に否定的な態度をとっているのがリー・クアンユーである。実際、彼は、これまで長期にわたって、文化的な違いゆえに、西欧流の民主主義や人権思想を東アジアに適用するのは不可能だと主張してきた。
<リー・クアンユーの世界>

リー・クアンユーは、先のインタビューにおいて、文化的な要因を一貫して強調している。私自身も文化の重要性について認めるのにやぶさかではない。しかし、私は、それだけで社会の運命が決まるわけではないと見ているし、また文化は不変ではないと考えている。さらに、リーのアジア文化の見方は支持できないし、あまりに自己正当化が過ぎるのでないかと考えている。彼は、東洋の社会は、西欧の社会とは異なり、「個人は家族という枠組みのなかに存在し」、そして、この家族という単位によって「社会が構成されている」と論じている。しかし、「家族を中心とした」東アジア社会も、その工業化につれて、いまや、個人を単位とした社会へと急速な変貌を遂げつつある。人間の歴史に関するかぎり、そこに永続的なもの、不変なものなど存在しないのである。

リーは、東洋の社会においては、「家族が最もうまく対応できるような問題に関して、統治者や政府がそれに関与を試みることはない」と指摘する。彼は、東アジアの経済成功の理由を自助的で家族指向の文化に求め、一方で、西欧では、(うまく対応できるはずもないのに)ほとんど全ての社会問題を政府が解決しようとしているために、(膠着状態に直面している)と批判し、民主主義と個人的権利の行き過ぎが引き起こす西欧社会の道徳的衰退を嘆いている。こうして、リーは、社会介入型の西欧の政治システムは、家族指向の東アジア社会には向かないと現実に主張しているわけである。彼は、近代化とそれにともなうライフスタイルの変化を認めながらも、西欧化を拒否し、アジアに民主主義は向かないと主張している。

しかし、現実はこれとはまったく逆である。リーは、アジア地域の政府は、個人の生活に介入したりしないし、社会問題のすべてに取り組もうとはしないと主張するが、これは真実ではない。アジア地域の政府は、西欧の政府以上に、個人の日常生活や家族の問題に深く関与している。例えば韓国では、政府の通達を受け取り、近隣の問題を話しあうための月例地区会議がいまも開かれているし、強い権限をもつ日本政府は、彼らが国益とみなすものを守るためであれば、ビジネス部門にも積極的に介入し、これによって、米国やその他の貿易パートナー諸国との間で問題が引き起こされることもしばしばある。 実際、リー・クアンユーの国、シンガポールでは、チューインガム、唾のはきすて、喫煙、ゴミを散らかさないことなど、政府が個人の行動を厳しく規制しており、状況はあたかも、ジョージ・オーウェルの描き出した(全体主義)世界に酷似しているとさえいえる。

こうした現実を考えれば、東アジアの政府が個人の生活に介入しないという彼の主張は、ほとんど絵空事のようにすら思える。彼は、自らの西欧政治政治システムに対する否定的見解を正当化するために、こうした事実を無視した虚構をもちだしているのである。リーは、近代民主主義の基盤である一人一票制の原則さえも好ましいとは考えておらず、それが最善のシステムであると「知的に納得しているわけではない」とさえ発言している。

とはいえ、先進民主国家社会の多くが道徳的荒廃を経験しているだけに、リーの議論は、アジア諸国だけでなく、一部の西欧諸国にも強いインパクトを与えた。実際、マイケル・フェイという米国人がシンガポールにおいてしでかした行き過ぎた悪戯に対して、シンガポール当局が鞭打ちの刑を科したことを、米国民の多くは、妥当な処置として理解を示した。とはいえ、道徳的な荒廃は、西欧文化の本質的な欠陥によるものではなく、社会の工業化によって引き起こされる問題である。事実、似たような道徳的荒廃は、アジアの新興工業諸国のほぼすべてにおいて認められる。リーの国であるシンガポールは小さな都市国家であるにもかかわらず、市民を管理するためにあたかも全体主義の警察国家のような体制を敷いており、この現実は、政府が市民生活に介入するのをやめれば、すべてがうまくいくようになるいう彼の主張とはまったく矛盾している。工業化社会の病をいやす治療法とは、警察国家による恐怖を前提とするものではなく、道徳教育(Ethical Education)の強化、精神的価値の尊重、文化や芸術の促進を通じたものでなくてはならない。

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