インド経済の成長を民主主義が抑え込んでしまうのか
――改革と経済介入路線に揺れる民主政治
India's Democratic Challenge
2007年5月号掲載論文
経済成長を遂げるインドには二つの顔がある。経済は活況を呈し、活気に満ちた中産階級の規模も拡大している。しかし一方で、物乞い姿、栄養失調でやせ衰えた子供たちの顔を街角では依然として目にする。いまも人口の4分の1近くが1日1ドル以下の生活を余儀なくされている。市民の大半は「改革はおもに富裕層に恩恵をもたらしている」と感じており、しかも、投票を通じて政治的に大きな力を持っているのは、改革に反発しているこうした低所得者層だ。長期的には市場経済はすべての者に恩恵をもたらすとされているが、そうした長期的な展望を、選挙を控えた民主国家の政治家が政策の機軸とすることはあり得ない。改革の行く手を遮るこの民主的な制約を克服する道はあるのか。
- 経済成長の行く手を民主政治が阻む?
- 管理経済から市場経済路線への転換
- 成長で広がる所得格差
- 改革と選挙
- 改革を成就する道はある
<経済成長の行く手を民主政治が阻む>
現在のインドは、近代史上ほとんどの国が成功したことのない「確立された民主体制のもとで経済の自由化を図る」という壮大な改革を試みているが、市場経済の論理と民主主義の原則がすでに衝突し始めている。この二つの論理と原則は本質的に矛盾するものではないが、緊張が生じるのは避けられず、いずれ、インドの政治指導者はこうした緊張をうまく管理していかざるを得ない状況に直面するはずだ。
政治経済学を学ぶ学生なら誰もが知るとおり、経済全体の効率化を目指す市場経済体制に基づく改革は、しばしば短期的な混乱と人々の反発を招き入れるものだ。通常、民主体制のもとでは、人々はこうした憤慨や反発を投票でアピールし、これによって、市場改革路線が停止に追い込まれたり、覆されたりすることもある。
西洋において、このような緊張が大きな問題を引き起こさなかった大きな理由は三つあった。まず西洋の民主主義国家の多くで普通選挙権が確立されたのが産業革命以後で、貧困層が選挙権を持ったときにはすでに社会が比較的豊かになっていたこと。次に、社会保障制度の導入を通じて低所得者層の最低限の必要性が満たされていたこと。最後に、貧困層よりも知識階級と富裕層の方が選挙で投票する可能性が高かったことだ。
これら三つの要因からみても、インドはかつての西洋とは全く違う状態にある。インドが普通選挙を導入したのは近代的な産業経済への移行が始まるはるか前、植民地からの独立を果たしたときだった。またインドはここにきて社会保障を整備しようと大いに努力しているが、いまのところ社会保障制度が確立されたと言える状態にはない。さらに、一般的な民主主義の理論とは逆に、インド政治の特徴は、上流階級よりも、むしろ大衆層が(投票を通じて)政治に積極的に参加していることにある。
こうした大衆の積極的な政治参加というインド特有の現象は、最近になってようやく学者や専門家の注目を集めるようになった。実際、1990年代初頭以降のインドでは、下層階級の人々の投票率が上流・中流階層のそれよりもはるかに高く、インドの大衆の投票行動によって民主体制下の政治参加の理論が覆されつつある部分がある。インドでは、カースト制度上での身分、所得、教育水準が低い有権者ほど選挙で投票する傾向が高く、インド国民会議派(INC)が中心となっている現在の連立与党の統一進歩連盟にとって最も重要な票田も社会的な下層階級の人々だ。
また、インドの経済開発は、東アジアとも異なる道筋をたどると思われる。韓国と台湾が普通選挙に基づく民主主義を導入したのは、それぞれ1980年代後半と1990年代半ば。つまり、経済発展が軌道にのって20年ほどたった段階で民主主義を導入している。中国やシンガポールなど、東アジアで経済的な成功を収めた国のなかには、いまだに完全な民主化を果たしていない国さえある。
権威主義国家であれば、選挙で定期的に政治権力の担い手が入れ替わることはないが、インドの場合、そうではない。例えば、中国と比べてインドの国営企業の民営化がスムーズに進まないのは、インドが民主主義国家だからでもある。インドでは労働者は自らの利益を守るために労働組合と政党に帰属している。一方、中国の場合、民営化によって雇用が奪われることに反対する組合指導者は、裁判にかけられ、反逆罪やサボタージュの罪で投獄されるが、インドの民主体制ではこのようなことは起こり得ない。
これまでのところ、この15年におよぶ改革プロセスは良い結果をもたらしている。あらゆる一般的な指標からみて、インド経済は急速な成長を遂げている。インド経済はほぼ四半世紀にわたって年平均で6%の成長を遂げ、経済成長はさらに加速している。この3年間は年間8%以上の成長を遂げ、今後数年間は同じペースでの成長が続くと予測されている。外国からの投資(FDI)の対国内総生産(GDP)比も着実に上昇しており、最近では対GDP比30%規模を超える投資が行われており、東アジア経済を牽引した投資ブームがインドで再現されるという期待も高まりつつある。1990年と1991年のFDIの総額は1億ドルだったが、2007年度のFDI総額は100億ドルを超えそうな勢いにあり、現在も拡大傾向が続いている。
輸出も急速に拡大している。1991年当時、対GDP比でみたインドの貿易取引額は15%程度だったが、2006年にはその比率が2倍以上へと増大している。サービス部門同様に、製造業部門も経済成長を牽引する主要なエンジンとなりつつあり、一方でインドが世界に誇る情報技術(IT)部門も急速に拡大し続けている。労働人口の0・5%しか就労していないIT産業がGDPの約5%を担っている。また、これまでインドとはほとんど無縁だった企業戦略が国内の経済構造を内側から変化させつつあり、その結果、インドは主要な国際企業のグローバル戦略における拠点とされだしている。
しかし、このようなインドの経済ブームはどのくらい続くのだろうか。その答えは、経済発展のなかで拡大した格差問題にどう対応するか、インドの民主政治が富の再分配をめぐってどのような回答を出すかに左右される。市場経済と社会保障に関する主流派の経済理論によれば、長期的には市場経済はすべての者に恩恵をもたらすとされている。しかし、そうした長期的な展望を、選挙を控えた民主国家の政治家が政策の機軸とすることはあり得ない。彼らは選挙における勝利というごく短期的な目的の実現しか考えていないからだ。したがって、インドのような低所得者層の政治力が強い民主国家では、短期的には民衆の不安と反発に対応しつつ、長期的に企業家層のバイタリティーを育んでいかなければならないことになる。インドの政治家がこのような綱渡り的な国家運営にどのように対応していくかで、インドの経済改革の結果が大きく左右されることになる。
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