Max Zalevsky/shutterstock.com

イスラエルの新戦略とは何か
――占領地撤退戦略の真意

バリー・ルービン/学際研究所・国際関係グローバルリサーチセンター所長

Israel's New Strategy

Barry Rubin  イスラエルの学際研究所(IDC)・国際関係グローバルリサーチ(GLORIA)センター所長。また、Middle East Review of International Affairs 誌の編集員。最新の著書に『自由への遠い道のり――中東におけるアラブ民主主義(The Long War for Freedom: The Arab Struggle for Democracy in the Middle East)』がある。

2006年8月掲載論文

占領地からの撤退に反対し、占領地はいずれ取引材料になるという議論に対して、シャロンは「取引相手がいないのに、取引材料を持っている価値がどこにあるのか」と反論した。占領地からの撤退と防護壁に即した防衛ラインの強化というイスラエルの新路線について、シャロンの後継を担うオルメルトは次のように述べている。分離壁の外側にある入植地は最終的には解体され、これら入植地の住民は「イスラエルの支配下にある入植地ブロックにまとめられる。……それ以外の占領地にイスラエルのプレゼンスはなく、これらの地域が将来のパレスチナ国家の領土となる」。イスラエルは、1967年以前の境界線に極めて近い境界線を引こうとしている。

  • 占領地政策の終わり
  • オスロ合意の挫折とイスラエルの覚醒
  • 戦略の大転換
  • 粉砕された希望的観測
  • 一方的撤退のロジック
  • 新たなコンセンサス

<占領地政策の終わり>

イスラエルの政治と政策は革命的な変化のさなかにあり、この流れは、イスラエルの歴史のなかでもっとも重要な展開の一つとみなせる。たしかにここ数カ月劇的な事件が相次いでいる。だが過去30年間続いてきた議論と路線の流れだけでなく、イスラエルにとってもっとも基本的な前提さえも覆すような新しい戦略的パラダイムが登場していることにも目を向ける必要がある。
イスラエル側の認識、政治、戦略はなぜかくも劇的に変化したのか。アリエル・シャロン首相(当時)が、ユダヤ人入植地を含むガザ地区とヨルダン川西岸からの撤退を命じたことが新路線の始まりだった。数カ月後、シャロンはリクード党内の反発を受けて離党し、新党カディマを創設する。労働党の党首には、よそ者のポピュリストが就任した。こうして連立政権は崩壊し、新たに選挙を実施せざるを得なくなった。
シャロンが脳卒中で倒れ政治的に再起不能になると、彼の右腕だったエフード・オルメルトが首相代行として舵取りを行い、2006年3月の総選挙でカディマを勝利に導いた。これに先立つ2006年1月のパレスチナ自治政府の評議会選挙では、イスラム過激派のハマスが勝利したが、これは、イスラエルを新戦略へと向かわせた政治環境の変動というトレンドのなかの一つの出来事にすぎない。
「パレスチナ指導層には和平実現に向けた意図も能力もなく、ハマスであれファタハであれ、西岸とガザを手に入れれば、イスラエルに対する攻撃の拠点とするに違いない。だがそれでも、西岸とガザにこだわるのはイスラエルの利益にはならない」。イスラエルで新しい政策パラダイムが台頭した背景には、こうした認識の広がりがあった。
アラブ諸国の軍隊がイスラエルに通常戦争を仕掛ける可能性はすでに大きく低下しているし、戦力を広く拡散させるよりも強固な防衛線を敷く方がうまくイスラエル市民を守れる以上、イスラエルにとって占領地はもはや戦略的意味を失っている。包括的な中東和平交渉合意が結ばれるとは当面考えられず、占領地には取引材料としての価値もない。しかも、パレスチナ側が秩序を確立し、和平に前向きになるほど穏健化するには長い時間がかかる。イスラエルは、こうした現実に即して戦略を練る必要がある。これが新パラダイムを支える認識だった。
和平カードとしての占領地

国際情勢は1990年代に劇的な変化を遂げたが、イスラエルは目先の危機や問題に気を取られ、最近まで新しい現実を考慮に入れてこなかった。1990年代には冷戦が終結した。ソビエトは崩壊し、アメリカが唯一の超大国となった。1991年にはクウェートに侵攻したイラク軍を、アメリカを中心とする多国籍軍が追い出した。こうした環境のなか、対イスラエル戦争へのアラブ諸国の熱意も薄れていった。パレスチナ解放機構(PLO)は数十年にわたってイスラエルと戦ってきたが、目標を達成できずに、すでに意気消沈していた。
こうした外的環境の変化に加えて、パレスチナ側は戦闘に敗れ続け、内的にも混乱していた。こうした流れが、パレスチナ指導層、シリア、そして多くのアラブ諸国をイスラエルとの和平に向かわせるのではないかと当初は期待されていた。中東和平プロセスは、こうした期待が実現するかどうかを試す試金石だった。しかし、2000年にシリアとパレスチナが(クリントン案とキャンプデービッド合意に基づく)和平を拒否し、この期待が誤りであることが明らかになる。
多くのイスラエル人は、この結果は誤解の産物でもなければ、アメリカやイスラエルの非妥協的な態度や外交的失敗、あるいは取引の条件が若干不完全だったためでもないと考えた。パレスチナとシリアの指導者は、単に和平に向けた準備ができていなかったのだ。イスラム過激派組織の存在と彼らが掲げるイデオロギー、強硬派のキャラクターと過激な目標、そして、本来なら深刻な内的問題に直面していたはずのパレスチナ、シリアの指導者が、逆に紛争のおかげで力を増したことが、彼らを和平路線からさらに遠ざけた。こうして、イスラエル人は期待が砕け散るのを感じながら、紛争が長期化するという予測を受け入れざるを得なくなった。
こうした現状認識に基づき、イスラエルはどのような対応をしただろうか。国家戦略をめぐる議論を見直し、オスロ和平合意の破綻から教訓を学び、パレスチナ政治の現状分析を行った。たしかに、イスラエル人の一部は、宗教、ナショナリズム上の理由から、1967年の6日間(第3次中東)戦争で獲得した占領地を維持したいと常に望んできた。だが、東エルサレムを例外とすれば、いつの時代も占領地の維持を望むのは少数派で、こうした少数派とイスラエル政府の方針は幾分違っていた。
むしろ、政府が占領地維持に固執したのは、戦略的かつ外交的な理由からだった。第一に、西岸とガザ地区を維持すれば、(緩衝地帯が形成されることで)戦略的奥行きが生まれ、イスラエルは通常戦力による攻撃から自国を守りやすくなる。第二に、占領地は、パレスチナ側の恒久的な和平実現の準備ができたときの取引材料にできる。占領地が「和平のための土地」とも呼ばれるのはこのためだ。労働党とリクードはこの理屈で、占領地におけるユダヤ人入植地の建設を支持し、外交面で実体のある進展が得られるまで西岸とガザを確保しておくべきだと主張してきた。
この主張は多くの点で妥当だった。国境を接するアラブ諸国との戦争は、歴史的にイスラエルにとって大きな戦略的脅威だった。その意味では特に西岸を確保しておくことが死活的に重要だった。ヨルダン渓谷を支配すれば、南北に走る稜線の西側をイラク、ヨルダン、サウジアラビア、シリアからの攻撃に対する防衛拠点にできたからだ。また占領地は、パレスチナ側からのテロ攻撃に対するバッファ(緩衝地)にもなった。この意味で、イスラエルの防衛線の「背後」に存在する占領地のパレスチナ人は、治安上の限定的な問題としかみなされていなかった。
こうした戦略構想は、1980年代末の第1次インティファーダまで20年間にわたって非常にうまく機能したし、その後10年間もある程度は機能した。歳月が流れ、「交渉による解決は可能だ」と多くのイスラエル人が信じるようになると、占領地は「和平のための土地」であるという主張が一層強くなっていった。そしてこの考え方こそが1993年のオスロ和平合意の基礎となった。実際、当時のイツハク・ラビン首相やシモン・ペレス外相をはじめとするイスラエルの指導層は、占領地からの撤退はイスラエルに取引の意図があることを示す信頼醸成措置になると考えていた。

この論文はSubscribers’ Onlyです。


フォーリン・アフェアーズリポート定期購読会員の方のみご覧いただけます。
会員の方は上記からログインしてください。 まだ会員でない方および購読期間が切れて3ヶ月以上経った方はこちらから購読をお申込みください。会員の方で購読期間が切れている方はこちらからご更新をお願いいたします。

なお、Subscribers' Onlyの論文は、クレジットカード決済後にご覧いただけます。リアルタイムでパスワードが発行されますので、論文データベースを直ちに閲覧いただけます。また、同一のアカウントで同時に複数の端末で閲覧することはできません。別の端末からログインがあった場合は、先にログインしていた端末では自動的にログアウトされます。

Copyright 2006 by the Council on Foreign Relations, Inc. and Foreign Affairs, Japan

Page Top